from ideas to actions

2013年3月17日 (日)

from ideas to actions その7 "you"

すっかり暖かくなった。



緩やかに世の中が暖かくなってきて、虫たちが寝床からもそもそと這い出る季節。
世界の音も緩やかに大きくなる。
生き物の呼吸の音だろうか、それとも自分の鼓動の音か。

心地よく気持ちが高揚してくる。
色も徐々に鮮やかになっていくようだ。


春先に、僕はよくサイケデリックな音楽を聴く。
混じりっ気のある音が春の到来に似ていると、勝手に思う。

寒さのせいで塞ぎがちだった目蓋がしっかり開き、世界の美しい色が飛び込んでくる。
鈍くなっていた嗅覚も聴覚も目を覚まし、生命の匂いも音もよく届いてくる。

ひなたぼっこをするような季節には、小説のような特殊な世界に浸るのがいい。
で、そこには音楽があれば尚いい。


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長い宇宙の旅の記録のように3枚に分けられた”ラジオの精”に関する音楽による物語。
その最後にあたるのが、このGONGの”you”である。
最近ではあまり聞かなくなったいわゆる”コンセプトアルバム”というものだ。

長い長い、小説のような音楽絵巻。
たくさんの不思議で緻密な音ともにラジオの精の話が展開していく。

目に見えない事というのは、可能性を奪う事では決してない。
サウンドは色も匂いも感触もしっかりと伝達できるマイティーツールになりうる。
ただし、それはそのサウンドによって構成された音楽が”世界”を紡いだ時のみだ。


曲一曲ずつを、あるいは、アルバム1枚ずつを切り離して考えてしまうと、GONGが紡ぐこの壮大な物語の世界は真の姿を現してくれないままになるだろう。

そういいながらもこうやって”you”だけを挙げている矛盾もあるが、このあるアルバムはその中でもやはり特殊である。

音楽が総合的な芸術であるという確固たる証拠がこの1枚によく現れている。
僕自身が作家として音楽を作るときに大切にするものは、架空の”世界”の架空の”物語”である。
物語であるという前提は,もともとは別々の一曲一曲を見事に結び付け、巨大な組曲を作り上げる鍵となる。
巨大な絵画、壮大な長編小説、それと同じ位置にアルバムという音楽作品はある。

かつてのクラシック作品の多くは、1曲そのものに章があり、その中で物語が展開していくものであった。
長い時間をかけた感情や景色の移り変わりをミニチュア化したものこそ、時間芸術である音楽の真骨頂である。
自然を切り取った絵画や写真のように、あるいは人生を切り取った映画や小説のように、やはり音楽も何らかの事象の一部を切り取ったものであり、それこそが美しさとなるものだ。


このシリーズで僕の挙げる作品は、いつも決してマスターピースなどではない。
つまりそれがなかったからといって、ミッシングリンクにはならない。
ただ、”知りたい”という欲は、いつでも人を次の場所へと、あるいは遠い昔へと連れて行くきっかけになる。


音楽が未来にどうなるかは、僕にとってはどうでもいい事だし、考えるだけ無駄なのだろうけど、過去にこの”you”のように、音楽が小説とおなじように読み聴きされていた事を僕は忘れたくないと思っている。

考古学は新しい視点を発見するきっかけとなり、新しい視点はさらなる過去への興味を抱かせる。
音楽はどこからきたのか、僕らはこれによって何を伝えようとしてきたのか。


”you”はそういう旅の記録である。

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2013年2月11日 (月)

from ideas to actions その6 "Died In The Wool"

すごく久々の、断続的音楽考だ。



日本の文化にはもともと、人工的な何かに対して”自然”を混ぜるという風習のようなものがおうおうにしてある。
庭は森や山や海といった自然のミニチュアのように作られ、絵画においても、和紙の独特の質感が空気そのもので、その下地によって生み出される独特の色合いや質感というのがある。

音楽でもそれが言えて、獅子脅しや水禽窟のように自然が起こす音を取り入れたり、”さわり”というノイズ要素を楽器の構造に取り入れたりで、多分にそれを含んでいることが侘び寂びを感じさせ、美しいという感覚がある。

そういうことを考えると、もしかしたら日本ほどノイズ音楽に敏感な国はないのかもしれないと思う。


さて、唐突に話は変わるが、アレンジという音楽制作作業の一部に本格的に興味を持ったのは去年の半ばで、そのきっかけになったのが日本人の若き作曲家である藤倉大氏が手がけた、デヴィッド・シルヴィアンの”died in the wool”だった。

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このアルバム、この前作にあたる”manafon”のいわゆる変奏曲集である。
manafonは僕的には歴史に残る名盤であるのだけど、この変奏曲集が出て、ほんとに驚いた。

アレンジャーである藤倉氏のあまりにも美しい不協和音感、ノイズ。
理論音痴な僕なんかが言うのはなんなんだけど、非常に緻密に練り上げられた複数の旋律がとても有機的で、どこまでも自然に聴こえる。
それでいてノイズでもある。
ノイズというと、多くは偶発的なものであるが、彼の作り出すそれはコントロール下にあって、限りなくシルヴィアンの歌に近いところに配置されている。

そのサウンドスケープというか、感触がやっぱり日本的なのだ。
自然が人工物に寄り添っている、日本の古くからある文化。

音楽の魅力は言わずもがな時間とともにある偶発性であるけれども、例えばこの”died~”の藤倉大のアレンジのように、コントロールされていながらまるで無作為で自然に音が発せられているようなアレンジが施された作品の美しさは、まさに現代に至って完成された、音楽という芸術の一つの答えであるように思う。

シルヴィアンは優れた作曲家であるけれども、もし藤倉氏がいなかったらこういう曲の側面は間違いなく見えなかっただろう。


僕自身も自分のグループにおいて作曲をする人間だが、このアルバムを聴いた後、メンバーの音のチョイスにより一層興味沸いた。
そこからさらに一歩踏み込むと、誰かの音を自分のものにする面白さに気づき、さらには普段気にもしなかった身の回りの音、そんなものまでもとても新鮮に聞こえる。


シルヴィアンもとても日本の文化に詳しい人であるようだ。
藤倉氏は今、日本の作曲家の中でまぎれもなく最先端のセンスとアイディアを持った人である。


こういう音像こそ、僕を刺激するものだ。
可能性というのはいつも僕を取り巻いている何気ない日常にまだあるようだ。

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2012年6月14日 (木)

from ideas to actions その5 "Guess at the Riddle"

じめじめの間の晴れ間である。
6月の割には急に冷え込み、また暑くなるという随分とおかしな気候になっている。

ここ数ヶ月、演奏活動も多いが、最近ようやくレギュラーに興したレコーディングエンジニアの仕事の依頼も多く、自分の好きな音楽を聴く暇がないと思っていたが、人ってのは慣れるもんで、ようやくそんな忙しい日々の中でも音楽を聴く時間を取れるようになってきた。

仕事とあわせると、つまりは一日中音楽ないし音を聞いていることになる。
そんな閉鎖的な空間の晴れ間がこのブログであったりもする訳だ。

発表こそしてはいないが、公にしている曲やアレンジの他にも、やっぱりノイズエクスペリエンタルも好きで、自分でこそこそ作ってはこそこそお蔵入りにしてるものがいくつもある。
そもそも、ノイズミュージックは僕にとって二面だか三面だか五面だか、それだけある顔や性格の一側面で、誰の考えも含まない自分だけのプライベート空間のような位置づけだ。

”公表するものはポップでありたい”という考えこそ僕の作家としてのプライドで哲学のようなものであるから、そういった下手するとダークサイドのようなノイズを表に出すことはないと思うが、しかし、そういった側面の研究や創作がなければポップに潜む毒はやはり培われなかっただろうと思う。

ストレートなものは、僕にとっては退屈だ。


そこで今回はこんなアルバム。


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デヴィッド・グラブスの”Guess at the Riddle”である。
ソリストとしてより、人によってはジム・オルークとのエクスペリメンタルデュオである”ガスタデルソル”の名義の方がご存知なのではなかろうか。

ガスタデルソルはエクスペリメンタルというだけあって実験的でもあるけれども、そんな実験的な音楽をまるでクラシック音楽のような深みをもたせたことに大きな意味のあるユニットであった。

が、今作”Guess at the Riddle”は、そんな実験的な音楽とはうってかわって、アメリカの広い大地を思わせるような自由で温かみのある音とポップな曲によってカラフルに彩られている。
周りを固める布陣も、マトモス、アダム・ピアース、キム・ヨーソイと僕の大好きな現代を代表する作家ばかりだ。

まさにこの作品の面白い点の一つはそこにある。
作家が1人に作家を中心に集まってるということだ。
グラブスのポップ感は彼らの手によって極限まで広がる。

このカラフルさは、彼が今までに作ってきたエクスペリメンタルミュージックによって培われたものだということも忘れてはいけないだろう。


ノイズは、正しく解釈すれば”日常にあふれる音”そのものである。
発信される音をエフェクトすることで疑似日常の音を作り出し、額縁に絵を飾るように日常の音を切り取り、暴き出す。

音を特殊化することこそ、グラブスの”ノイズ”であった。
そうやって培われた音はポップな音楽へと昇華される。


音楽は簡単なものではない。
コード理論やテクノロジーによって作られるものではない。
日々の実験、研鑽によって編みだされ、紡がれていく。
思いつきやその場のノリではなく、積み重ねられた哲学が結晶化したものだ。


グラブスの作品は、表裏一体となって、それを僕に示してくれる。


そう簡単にこの音楽は作れやしない。

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2012年6月12日 (火)

from ideas to actions その4 "TinDrum"

いよいよ梅雨に入った。
追われるように生きていると、季節が巡るのは速い。

基本的に家っこの僕は、この時期は、いや、この時期に関わらずだが、家の中でよく音楽を聴いて過ごす。
洒落た音楽は、音の世界に人を止まらせず、空間的、あるいは視覚的な新たな世界へと連れ出してくれるものだ。


80年代の終わり、若かりし彼らがまぶしいばかりの脚光を浴びると同時に、想像を絶する誹謗中傷を同時に受けていたことは想像に難くない。
その音像は今をもってしても確実に新鮮で且つ刺激的でもあるが、光が強ければ強いほど今も濃く影を落とす。


今更と思うか、はたまた、今こそと思うか。
JAPANの”TinDrum”、彼らのラストアルバムである。


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生々しさはその年頃にしか出せないものであり、初期揺動は確実に残っていながら、グループとしての洗練が見られるこの作品において特筆すべきは、やはり完璧に彼らの”今”をとらえたものであったということであろう。

奇をてらうことなく、また深くなりすぎず浅くなりすぎず、リアルに今をとらえることは、複製時代の現代にあって、実は最重要事項であると僕は思う。

作家としてのデヴィッドシルヴィアンは、常に今を見つめる人であるということが分かる。

過去を変えることはできない。
未来を見ることも出来ない。
つまりそれは過去に媚びず、自らの手で新しい未来を切り開くということ。
だから”今”がキーなのだ。

今の心象風景をとらえて音に置き換えるのが音楽だとして、流れていく時間を魔法のように意味付けするのがパフォーマーだとするなら、間違いなくJAPANはその両方をこの作品で見事に結び合わせて、時代に何かを訴えかけるものを残したと言えるだろう。


”今”をとらえるのが作家であると思っている。
作品を作る過程で、次から次へと今が過去になっていく訳だが、今を追うというその不可能を可能にすることこそ僕の理想であり、それが僕の芸術感で、”TinDrum”は一つの理想型を成したものだと思っている。


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2012年5月 5日 (土)

from ideas to actions その3 "loveless"

気温があがると、不思議なことに世界の音がざわざわと聴こえる。
寒い時期、世界はたしかにもっと静かだ。

暖かくなるにつれて、きっとたくさんの生き物が動き出すからだろう。
やっぱりどんな生き物も、生きる音を発し、鼓動がしっかりとビートを刻むもののようだ。

やがてそれらの音は混じり合って巨大なノイズとなるが、なぜこのノイズは耳に優しく入ってくるのか?
それは間違いなく大きな音のはずであり、ものすごい力で空間を支配しているはずなのに。


ノイズという観点で音楽を聴くきっかけはある日突然訪れた。
いつどこでそれが興り、どういう経路を辿って市民権を得たのか、おそらく少しその当時の環境やカルチャーを調べればすぐに分かることであろうが、僕はあえて調べることをしなかった。

なぜなら、ノイズは偶発的に生み出される音の集合体であると、そういうロマンチシズムをいつまでも信じたいからだ。





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”万人が当たり前のように聴き、知らなきゃモグリだ”とかいうくだらない口上は垂れないことにする。

その上で、このmy bloody valentineの”loveless”は全くもってスタンダードなんかではないと断言しておく。
マスターピースなんかでもない。
これが歴史から消えようが、そもそもこの作品がなかろうが、断じてミッシングリンクなんかにはならない。

カンブリア紀の異形の生物の様な位置づけだ。
真の意味でこの作品に”フォロワー”はいない。
真似などできない。

だからこそ、この作品が真に芸術品であると僕は思っている。

そういうわけだから誰がつけたか知らないが、”シューゲイザー”なんていう莫迦な冠がとてつもなく気に入らない。
靴など見つめることはない。


この作品が見つめたものは、間違いなく未来につながる可能性だった。

これほどまでにストイックに純粋なノイズというXの要因をコントロールしようとした試しは過去に例を見ない。

マイルスデイヴィスが、ビッチェズブリューにおいて迫ったカオス的なノイズは、飽くまでも”ハーモニーの解体”に根ざしたものだった。
つまり、ノイズのコントロールとは根本的に発想が違う。


楽器を装置として考えたとき、人はその装置によって何を引き出すのか。

楽器は常に人に音を与える。
さらによりよくそれを鳴らすために”身体的訓練”という制約も、同時に人に与える。
が、人が楽器に対して違う可能性を見出したなら、、、。
そこからがノイズだ。
つまり統計的な考えから文字通り解放されて、分析不可能な、処理の施しようがない”ノイズ”になる。

こんな音楽の聴き方はそれまでやったことがなかった。

明らかにタブーのはずのものを、最大の魅力として使う。
それこそが新しい可能性だった。

かといってそれがメインではない。
核となるものはやはり珠玉のメロディーだ。

このアルバムの信奉者はとにかくたくさんいるようだ。
が、あえていうなら、これは”信奉”などするものではない。

これは”小さな部品”だ。
部品を憧れの対象にすることほど莫迦な話はない。

ここにはたくさんの部品が詰まっている。
僕はこの作品を解体することによってほんとに多くのアイディアを得たし、ときにはそれに抗うように全く違った観点からノイズを考えるきっかけにもなった。


光を当てるなら、ガラスケースに入れたままにしていてはいけない。

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2012年4月28日 (土)

from ideas to actions その2 "falling into infinity"

今日は一日雨だった。
暖かくなれば寒くなり、寒いと思うとあっという間に暑くなる。


書きためたCDレヴュー集をまとめ、自分の創作との接点を見つけるコラムシリーズ、今回は2回目。
ポピュラーミュージックの発展における最大の要素がリズムであるととらえるきっかけとなった作品について書いてみようと思う。




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ピンクフロイド、イエス、などなど、多くのレコードジャケットをはじめ、様々なシュールアートワークで人々を魅了したヒプノシスによるジャケットが目を引く、現代プログレッシヴグループの代名詞ドリームシアターの”falling into infinity”。

ドリームシアターファンにとっては迷作に突っ込まれる作品だが、僕は彼らの作品の中で今もって一番の作品だと思っているアルバムだ。

上記したように、僕個人が”これが新しい”と思える要素として、やはりリズムが大きな要因である。

シンプルなエイトビートを解体し変則的に再構築して、さらに変拍子にまで持っていくというアイディアでメロディーまで支配するドリームシアター的創作論が、このアルバムでは実にいいバランスでメロディーとリズムが均衡を保っている。

僕に新しい考えをもたらしたのはそこの部分だ。

歌を言葉だと考えるなら、言葉には本来決まったリズムがない為に周期を作る必要がないわけだから、その考えでいくと”歌には拍が必要ない”といえなくもない。

たとえば短歌に見られるように、三十一文字という決まった制限の中で言葉を編むことを音楽とするなら、そこに拍があり小節が生まれるわけだが、5、7、5、7、7という変則的な拍子がそもそも言葉の美しさを際立たせるという思いによって生まれたものであることを、”falling into~”に含まれる”リlines in the sand”はしっかりと思い出させてくれた。


音楽には必ず呼吸がある。
それは人間の場合、”言葉を発する”際の息継ぎに等しい。
歌を歌わない楽器奏者でもこの呼吸が大切だ。

呼吸のないものは歌にはならず、歌にならないものは音楽にならない。
それはもはや”ノイズ”だ。

変拍子という特殊な意識はいらず、言葉に寄り添うリズムこそ元来音楽に最も必要な要素で、強進行する作り上げられたリズムではなく、呼吸することからリズムをとらえる有機的な感覚が大事なのであり、このアルバムにはその感覚がほんとにたくさん散りばめられている。

cubic starの作品に限らず、その他のバンドや、サポートの仕事をするときも、こういった自由と有機の感覚を持って演奏できるようになったのは、このアルバムの分析によるものかもしれない。

僕は息をすることを覚えた。
それは大きく僕の歌を変化させる。


その3につづく。

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2012年4月26日 (木)

from ideas to actions その1"In the Court of the Crimson King "

個人の意識はどう形にしたって分かりにくいものである。

具体化された表現物を人がどうとらえるか考えた時、まずはその人の経験に近いところと結びつけることが常であるようだ。

僕は、”分かりにくいものはどこまでいっても分かりやすくはならない”と思っている。
だからこそそこに考える余地が生まれ、破壊され、再構築され、常に新陳代謝を繰り返すことができると思うのだ。

普遍的はすなわち”時代を超えて新陳代謝を永遠に繰り返すことができるもの”と意味付けても、大きくその意味がそれることはあるまい。


絵画の歴史は美術史として非常によく編纂されているが、音楽の歴史は実は明瞭なものが少ない。
それというのも、やはり飽くまでも音楽は耳で聞くものであり、本来は”無形の文化”であるからだろう。
譜面が残っているとはいえ、真にそのサウンドが奏でられることはない。

クラシックならまだ系譜で並べることもややできるが、ポピュラー音楽史となるとほとんど手つかずの状態で、ロックにおいては時系列があれど、もはや系譜は意味不明とまでなる。

音はまさに一期一会だ。
そのとき、そこを逃せば記憶から消え、運がよければ偶然にすれ違う。

僕の今を僕自身がまず知る為だが、それは内なる目的として、本来の目的に”今へのアクセス”と銘打って、自分がどこからどのようにアイディアを得て作家活動に至ったのかをまとめてみようと思う。

質問や疑問を受けることは大好きだ。
よく聞かれる質問に”アイディアの元はなに?”というのがある。
それに対する答えを断続的にシリーズ化して、ここでは書いていってみようと思う。

それとともに、簡単な系譜のように、何らかの関係性が様々なジャンルの中に生まれ、聞いたことのなかったもの、すれ違い忘れ去られていたもの、懐かしいものなどなど、発見、再発見をし、ディープに楽しく音楽のことに興味を持ってくれるようになればいいなぁと思う。

初回となる今回は、比較的多くの人が知っているもので、その後に大きな影響を与え、それ以前にも目を向けさせた、king crimsonの”In the Court of the Crimson King ”と、僕の創作活動の接点を記してみようと思う。



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69年、突如として現れ、あっという間にそのスタイルを築いたキングクリムゾン。
クラシックやフォークといった民族的な要素をたっぷりと含んだ音楽が見事にロックと融合する。

自由度の高い演奏スタイルと、即興性を強く持った曲構造に強く魅かれ、今でもそれはcubic starとしての作曲にも大きな影響を及ぼしている。

”作る”ということは自由なことである。
そこに本来縛りはない。
が、自由はカオスを約束するものではない。
定型において破壊と構築を繰り返すからこそ、自由が浮き彫りになる。

このアルバムエンディング前を飾る”moon child”には、僕の”グループにおける作曲方法”の原点があり、それはアンサンブルという考えに寄り添い、人が知と技を結集し何を作り出せるのかを克明に描き出している。


一人ではできないことを人と人とで紡いでいく。
これがアンサンブルだ。
自由はとても美しく自由たりうる。


ドラム演奏者としての観点から見ると、この時期のドラマーであるマイケル・ジャイルズの変則的なアプローチが実に有機的で大好きだ。

技術的なことよりも、そのアイディアが圧倒的に面白い。
小節という決まった枠の中に叩き込まれる非常にトリッキーな音のならびは、今もって新たなリズムの可能性を示している。

maikotobrancoやジャズの演奏における僕の奏法は、アイディアのもととしてジャイルズのアプローチが間違いなく基盤になっている。

のちにこれは僕の中でエレクトロニカの発見へと繋がる。
またここから”打楽器、あるいはリズムと歌”深い繋がりを考えていくことになる。


その2へつづく。


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