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2014年5月

2014年5月 5日 (月)

ルーツを探る旅

2月、3月、4月、とんで5月。



去年の中頃からずっと考えてきたことを、考えるを通り越してもはや悩んでいるという状態でよく考えた。

自分がどこからの影響で表現活動をはじめて、今どこにいて、何に向かってるか。
もし自分でもそれがはっきりしなければ、誰にも何も伝わらないだろうということ。



影響は小さい頃からずっと父の影響で耳にしてきたクラシック音楽と古いロックンロール。

やがて従兄弟の実演付きのハードロックやヘヴィーメタルにワクワクしだしても、従兄弟の聴くそんな音楽もクラシカルなメロディーのものが多く、結局はシンフォニックであったり、ヨーロッパ的でメロディアスなものばっかりだった。

ジャズを自分で買ったきっかけはマイルスデイヴィスのアガルタで、無知で莫迦な僕は”マイルスこそサイケロックの親玉だ”と思い込んで聴いていた。

メタルに異常に詳しかった僕に、ドラムのお師匠から付けられた最初のあだ名は”メタリカくん”(きっとお師匠は忘れているに違いない)だったが、いつもお師匠が聴かせてくれてたヨーロッパのジャズがとても好きだった。
おそらく、音楽をやるというしっかりした意識の芽生えはそこだったんじゃないかなと思う。


幼少期にできた下地なんてのは、所謂後付けの理論だ。
それは無意識に構築されてきたもので、もしいい環境にあったのならほんとにラッキーで、僕はその環境にいられてラッキーだったと最近よく思う。


4月〜今5月の頭、そして6月、7月と、ほんとにほんとにいろんな人といろんなジャンルの演奏をすることになっている。
ちょっと前だったらきっと思ってたに違いない、”これはロックだからこうで、これはジャズだからこう演奏すべきだ”とかって。
今は随分と違うように思う。



自分のルーツを大事にしたい。
自然に自分を解き放ってやりたいと思っている。

僕が演奏すべきスタイルは僕が決めるのではなく、音楽が聴こえてきて、音楽が教えてくれる。
自然に体の動きが導かれるものがその音楽の持つ意志で、それについていけるかどうかが僕の能力というわけだ。
ついていけなければそこで自然発生的に訓練すべき課題が見えるだろうし、またその新しい発見が自分の作る曲やアレンジにもいきてくる。


何かが好きだという思いは、まあ、月並みな言い方だけれども、宝物だと思う。
好きでいることは、簡単ではない。
でも意識して好きになるものでもない。
特殊な思いだ。


日本人でありながら他国の音楽が好きで、でも僕は日本人だから、間違いなく日本人のごく普通のありふれた解釈でその音楽を聴いてる、、、はず。
つまり、それがルーツ。

例えば、僕はゴスペルを必要とするような文化の中では育っていない。
教会で音楽を聴くような環境ではなかった。

僕は日本民謡の、あるいは伝統的な日本の、地域の音楽が耳に入る環境で育ってはいない。
沖縄などの島唄なんかが古くから伝えられる環境の中にはいなかった。

僕は苦しさや貧しさの中で育ってきてはいない。
父母は好きで音楽を聴き、好きで映画を見て、本を読み、僕をいろんな場所へ連れて行った。
父母と”好きなもの”をシェアしたのだ。


好きなことを自分の力で別の場所へ持っていく。
誤解して欲しくない。
”好きなことを好きなようにやる”ではない。

好きなことを、自分の中にしまい込んで、いつも体の内側から響いてくる音に耳を傾けるような、そういう感じ。
しまうものが増えれば増えるだけ、内側からたくさん響いてくる。
響いたものを外に出してあげられれば、その音は別の場所でも響くでしょ。
誰かのルーツになるかもしれない。


そういうワクワク。
周囲の人たちにも伝わりだしたような、気のせい?
いや、実感。

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don't let me go

私をいかせないでくれとは、おかしな表現かもしれない。

引き止めて欲しい気持ちの裏返し。
徐々に遠のく春と強い夏の狭間。



キースジャレットのことが随分といろんなところで話題になってる。
 
彼はかつて慢性疲労症候群で悩み、一時は活動をストップしていた。
僕もまた、彼ほど重度ではないけれども、同じ病気を持つものとして、彼の気持ちがよくわかる。

誰もがきっと一度は感じたことがあると思うけど、酷く疲れたときに、とても神経が過敏になることってあるでしょ?
その状態が結構長いこと続くと、それはうまく回転させれば音、意識を拡張してくれる諸刃の剣。
肉体の重い疲労感を精神で支えてる。

慢性疲労症候群は、基本、今は治らないとされているいわゆる奇病。
どんなに精神が強靭でも体そのものが機能しなくなれば、人は"動かなくなる"わけだ。

克服したとはいえ、彼はとても繊細な一本の綱の上にいると思う。
まだまだ僕のような発展途上の音楽家でさえそうなのだから、彼の立つ綱はもっと激しく揺れて、細く、茨のような表面の綱に違いない。
あるいは刃の上か。


意識は、実は深いところにステイするよりも、意識と無意識の間に、まるで浮かぶようにステイする方が難しい。
その狭間を水面に例えるなら、その水面は簡単に意識を無意識側に落とし込むように浮力がなく、また無意識の側面から遠ざけるように意識側に人を浮かび上がらせる。
ダリもまたその狭間に居続けようと、いろんな努力をしていたことはとても有名だ。


キースのソロは、トリオの演奏のようなエンタテインメントではないだろう。
きっと少しでも芸術を志した人は理解できるはずだ。
意識が表面にまで上ってきたとき、創造、あるいは想像は中断されるか消えてなくなることを。

その過程を見るのだ。

楽しませてくれるかどうかなんていうショウではなく、そこにいる全ての人がキースを通して出てくる音なのだ。


観客とはこの場合、意識のまだら模様であるといえばいいか。
精神的静謐の中には必ずノイズも潜む。

中断をするキース自身もほんとに悔しかっただろうし、もっともっとほんとは音楽を続けたかっただろう。
僕ならそう思う。


行かないでくれ、か。
遠ざけないでくれ、か。
あと少しだけ、もう少しだけこの場にいさせて、って。

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