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2013年10月23日 (水)

点と点

今年は随分と台風が多い年だ。

気圧の変化に敏感な僕は、ほぼ毎日のように酷い偏頭痛と耳鳴りに悩んでいる。


10月もいよいよ下旬。
忙しい月になった。
演奏は10本にもなり、単純計算で3日に一度の割合で本番がきて、さらにその間を縫うように仕事が入っているから、体調管理と音楽へのイメージ作りで頭がいっぱいだった。

”役者が役を演じるために、その人物の境遇とできる限り同じ生活をしてみる”という話をよく耳にするが、僕も同じくこれがすごく大事なことだと思っていて、ちょっとしたサポートをやるときでさえ、その音楽と一体となるようにといろんな資料を引っ張りだして読み聴きすべきだと思っている。


先日、先輩と話している時に”珈琲の味はとても複雑で、いろんな味が混じって一つの味にまとまる”という話題になって、音楽も一緒なのだなということで盛り上がった。

例えば一言で簡単にポップスだと言っても、巷で言う、いわゆるジャンル分けされて平均化されたイメージを僕は絶対に信じない。
それがいかなる要素がいかなる比率で混じって一つの音になっているかを分析して、最後には自分の手元に寄せて自分の味にしなければ、音楽というのは単なる劣化コピーになる。
原点を探り、自分のルーツと経過を辿りながら、今いるグループで自分が出すべき音を決定する。
その作業を本番と本番の間に繰り返す。

もしも、単なる”演奏者”というのであれば事はとても楽だったと思う。
その都度現場で現場にあうと思い込んでいるアイディアを出し、主体的な言葉だけでものを言い、本番が終われば、自分自身がどうであったかだけを考えればいい。

昨今、グループに属する人でもこの”演奏者”思考が多く、本番直後はああだこうだ言うことがあっても、その後に全く生かされないという事例が多分にある。


メンバーが3人だろうが100人だろうが、グループとなるとそれは一種の会社である。
アイディアマンを中心としつつも、状態のいい時は”これはみんなで成し得たこと”といい、状態が悪くなると”アイディアマンのアイディアの枯渇とリーダーシップの喪失”というこの上もない無責任な発言を繰り返す、社会の縮図を見ることができる。

己の役割というのはリーダーであれ、いちメンバーであれ、お雇いであれなんであれ、文字通り全身全霊で果たすもので、ときに不可能だと思えることも自ら研究し、まずは率先して自分がどうすればその集団の最良の歯車となれるかを考えるべきだ。
よく飲み込めもしないで、自分の意見を真っ先に言うものではない。

自由は必ず秩序の中にあり、秩序は”集団の中の大切な歯車になる”という覚悟によって成立する。


真の力は力の顕示によって示されるのではなく、全く逆で、”引力”によって示される。
一見では面白さ(ここでは興味深さの意味だが)がわからないものでも、その先に何かあるという考え方が、物事の引力に気づく基礎的な能力となる。
すでに成立しているものに喰らいついて、まるで自分がそれを成立させているかのようなファストフード的な満腹感を味わおうとするのは、芸術家、作家、パフォーマーの卵どころか、もはや癌細胞であり、それに取り憑かれると文化そのものが癌化する。

流行を大通りと例えて、そこが交通渋滞を起こして前に進まないのを今現在としたら、その状況を打開する方法は細い道を通ったり、あるいは遠回りをするという手段が思い浮かぶはずだ。
その道は決して走りやすいわけではなく、快適ではないけれども、新しい道を走るというワクワク感があるばかりか、諸悪の根源である大渋滞の原因を元から解決する新しい方法論に繋がる可能性を見出すことになりはしないか。

細道、迂回、遠回りこそ、”個性”である。
大通りばかりに誘導するナビが今の世の中にどれだけ必要なのか。
発見の手助けとなるのが教育であって、発見の土壌が科学だったり宗教だったり芸術だったりするわけで、それはすなわち長い時間をかけてまさに耕された文化である。



世の中が求めるものとはなんだろうか。
人々が欲するものとは一体何だろうか。
なつかしさか、”既に知っている”という絶対の安心感か、超越者による理解を超えた奇跡か。
いずれにせよ、そんなもののなかのどこに人間の意識の進歩があるのかと思ってしまう。

一点に止まることに飽きて、飽きれば戦争でもするか。
打開策は怒りと破壊でしかないのか。
理解しようともせずか。
何とも幼稚だ。

日々が常の変化だと思っていれば飽和など訪れないと理論的には言えるだろう。
一点に止まり、少なくとも自分だけでも”鉄壁だ”と思えるようなバランスを作る必要はある。
作ったものを途中で投げて、蓋をしたり、スクラップにするものではない。
失敗や実験で土台を固めて、その上に新しいものを作り上げればいい。

その研究というか、作業というか、それを行なう場は、聖域である。
音楽をやる僕にとっては、だから、本番だけでなく、リハーサルの場から聖域なのだ。
聖域に入るのに際して、心を決めずに入ることが許されると思うか。
一分一秒という時間が単なる自然流動だと思っているのなら、それは大きな間違いだ。
僕は場に足を踏み入れたその瞬間から、無駄にはしたくない。
もっといえば、その一日前、その数日前、その数週間前から、無駄にはしたくない。

話が最初に戻るけど、それが日と日を結ぶ僕の毎日だ。



僕には神様はいない。
でも、楽器には、場には神様がいると思っている。
どんな気持ちであれ、そういう神聖な気持ちがなければ見えてこない領域があるものだ。

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