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2013年2月

2013年2月11日 (月)

from ideas to actions その6 "Died In The Wool"

すごく久々の、断続的音楽考だ。



日本の文化にはもともと、人工的な何かに対して”自然”を混ぜるという風習のようなものがおうおうにしてある。
庭は森や山や海といった自然のミニチュアのように作られ、絵画においても、和紙の独特の質感が空気そのもので、その下地によって生み出される独特の色合いや質感というのがある。

音楽でもそれが言えて、獅子脅しや水禽窟のように自然が起こす音を取り入れたり、”さわり”というノイズ要素を楽器の構造に取り入れたりで、多分にそれを含んでいることが侘び寂びを感じさせ、美しいという感覚がある。

そういうことを考えると、もしかしたら日本ほどノイズ音楽に敏感な国はないのかもしれないと思う。


さて、唐突に話は変わるが、アレンジという音楽制作作業の一部に本格的に興味を持ったのは去年の半ばで、そのきっかけになったのが日本人の若き作曲家である藤倉大氏が手がけた、デヴィッド・シルヴィアンの”died in the wool”だった。

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このアルバム、この前作にあたる”manafon”のいわゆる変奏曲集である。
manafonは僕的には歴史に残る名盤であるのだけど、この変奏曲集が出て、ほんとに驚いた。

アレンジャーである藤倉氏のあまりにも美しい不協和音感、ノイズ。
理論音痴な僕なんかが言うのはなんなんだけど、非常に緻密に練り上げられた複数の旋律がとても有機的で、どこまでも自然に聴こえる。
それでいてノイズでもある。
ノイズというと、多くは偶発的なものであるが、彼の作り出すそれはコントロール下にあって、限りなくシルヴィアンの歌に近いところに配置されている。

そのサウンドスケープというか、感触がやっぱり日本的なのだ。
自然が人工物に寄り添っている、日本の古くからある文化。

音楽の魅力は言わずもがな時間とともにある偶発性であるけれども、例えばこの”died~”の藤倉大のアレンジのように、コントロールされていながらまるで無作為で自然に音が発せられているようなアレンジが施された作品の美しさは、まさに現代に至って完成された、音楽という芸術の一つの答えであるように思う。

シルヴィアンは優れた作曲家であるけれども、もし藤倉氏がいなかったらこういう曲の側面は間違いなく見えなかっただろう。


僕自身も自分のグループにおいて作曲をする人間だが、このアルバムを聴いた後、メンバーの音のチョイスにより一層興味沸いた。
そこからさらに一歩踏み込むと、誰かの音を自分のものにする面白さに気づき、さらには普段気にもしなかった身の回りの音、そんなものまでもとても新鮮に聞こえる。


シルヴィアンもとても日本の文化に詳しい人であるようだ。
藤倉氏は今、日本の作曲家の中でまぎれもなく最先端のセンスとアイディアを持った人である。


こういう音像こそ、僕を刺激するものだ。
可能性というのはいつも僕を取り巻いている何気ない日常にまだあるようだ。

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2013年2月 8日 (金)

零式

2月に入った。

月日はまさに矢のごとく飛び去っていく。



メールを整理していると、あの忌まわしき3.11の直後に海外の友人とメールでやり取りしたものが保存されているのに気付いた。
おそらく後々何か考えるきっかけになるかもしれないと、そのときの僕が保存したんだろう。

そこには9.11の事と比較した内容が書かれている。

僕の語学力がずさんであるために、何度も尋ね直し、そのためにものすごい文章になっているので原文は恥ずかしくて見せられないが、概ね次のようなやり取りであった。


友人:
”日本人には、例えばキリスト教で言う主のような、みんながそれに向かって力を集める対象がないのに、何を軸にして団結するのか?”

僕:
”日本人は、ええっと、少なくとも僕は、神仏は日常の何にでも宿るものだと考える風習の中に生きていて、その神仏の中には自分のご先祖様、あるいは亡くなった肉親の魂も含まれてて、そこに向かって祈る。だから、祈りの先は個々人で違うけれども、祈るという行為そのものが共通していて、それによるシンパシーが広がる事で僕らは団結しているように思うなぁ。”

こんな事に関して3、4日間にわたって、ずっとメールの送り合いをしていた。


宗教的な話にはいろんな考え方があって、おそらく僕のこんな意見を心から胸くそ悪く思う人もいるだろうし、反論を持つ人もいるだろうが、これは所詮は砂粒程度の存在である僕の、ものすごく小さな意見であるのを了承していただきたい。



で、ようやく本文。

アイドル≒偶像。
神仏を乗せられないと思った誰かが、太平洋戦争時、潜水艦に処女を乗せて魚雷回避の魔除けにしたというのは有名な話。

僕らの国の文化の、ある側面は、”確固たる祈リの対象を持たない”ようだ。
となるとそれに変わる何かをゼロから生み出すことを考える。

信仰や憧憬の対象となる創造物、それが偶像。
例えば、岡本太郎の太陽の塔が一種のシンボルのように扱われたとき、それはある意味新しい神様の誕生でもあったように思う。
が、彼はけっしてゼロからそれを生み出したのではない。
順序や段階を踏み、創造物を満を持して作る。
まぁ、僕が誤解してなければ、彼のスタンスはこれだったように思う。


話を今に戻すと、先日のアイドルの某事件に僕はこの上もなく腹が立った。
勝手に偶像に仕立て上げ、憧れやまるで信仰の対象であるかのようにでっち上げて、最後は人である事をばらしたとして断罪する。

はじめから彼女は人であった。
莫迦な夢想と愚かで幼稚な信仰心の狭間でその人は一時的に超越者に仕立て上げられていた訳だ。

事件数日、その問題は一時的に沸き、すぐに忘れられた。
そもそもこの国のメディア関係はそういう体質にあって、情報を情報で洗い流そうとする。
非道とかっていうより、これは愚行だ。

こと、これが”日本の音楽”の世界の一出来事のように取りざたした事に、何より最も怒りを覚えた。

音楽を含む芸術は”偶像の創造”を主とする行いではない。
そもそもは人が人として生きる足跡の発露であり、それを洗練した”その人の証”である。

僕らはゼロからものを作るようなおごり高ぶった創作活動はしておらず、夢や希望、ときには絶望や失望の記録であったり共感であったり、それを発露する行為をおこなうものである。
人は、恋をするし、好意を持たれ、嫌悪され、手をつなぎ、衝突し、罪を犯し、和解する。

ところが、神仏には善悪という概念は存在しない。
それは結晶化した芸術も同じであり、脈々と人が歴史を紡いだその流れから、今を生きる今の人たちがその思いによってものを作るのである。
零から偶像を造ろうとする考えというのは、もしかしたら僕らがみんなで一緒に祈りを捧げる対象を持っていないからだと、そんなふうに思ったりする。


何度も言うようだけど、これは、塵芥に等しい、僕ごときが考える微小な妄想だ。

僕は歴史と繋がりたくて、僕にできることを作ろうとする。
それが僕の場合は音楽であり、太鼓の演奏である。
絵が描ければ絵を描いたろう。
写真が撮れたなら写真を撮っただろう。

人は人だから、結局は人同士が繋がってるというようなことを海外の友人とのやり取りの最後の方で僕は語り、彼はそれに対して、”だから日本が好き”という返事を返してくれた。


とにかく、僕にはいつもいろんな葛藤があって、いつもこのままでいいのかって思う。
ただ、その疑問を真剣に受け止めて、一緒に考えようとしてくれる仲間が少しずつ増えてきたことが嬉しい。


零は無我と無欲を意味する。
欲を除けば人は人でなくなる。
必ず何事も壱から始まる。
その差は大きい。

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