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2013年1月

2013年1月28日 (月)

その場所

2013、1/27(日)、晴れ。


2007年春から、活動の拠点として、創作の場として、みんなで共有し、共に腕を磨いてきた場所、世田谷は駒沢の"small finger studio"はこの日を持って閉じることになった。


もともと大所帯のバンドであるcubic star minimal orchestraやmaikotobrancoなどのリハーサルや創作ができるようにと、僕とウッドベースのすなやまん、cubic starの初代キーボーディストのもーりー、maikotobrancoのこうどうさんの4人で立ち上げたスタジオだった。


音楽を作り続け、やり続けることはとても難しい。
人生は時とともに変化していく流れだ。
このスタジオでいろんな出会いがあり、たくさんの音楽が生まれる喜びがあって、その一方で別れもあり、難しい局面も何度となくあった。

みんなが集まる場所があるというのは、音楽においてとても重要だ。
そこで時間をかけてじっくりと作品を練り上げることができる。
ところがその逆もあって、そういう場所があるだけに、なあなあになることもあり、中途半端にあることもある。

芸術作品を作ることは、僕にとっては、答えのでない事象に対して何らかの答えを今出すという行為である。
それは時間をかけて出すものではなく、今の自分が今に対して出す答えである。

もしかしたら、僕はこういうマイスタジオがあることで、僕の意思をみんなに伝えることを怠ったのかもしれないな。

cubic starは初期メンバーは僕とすなやまんだけになり、後は皆、後に加入した人たちばかりになった。
このスタジオの立ち上げを知らない人たちばかりだ。
それでもみんな、この場所を大事に使ってくれた。



荷物を出し切った部屋で、僕とすなやまんで、”5年間ありがとうございました”とお礼を言った。

音大時代よりもずっとずっと濃く深く音楽を考えて、たくさんたくさん演奏した場所である。
今までの人生で一番濃い音楽生活をした場所である。

きっとこれからはここで作り上げた自分のバランスで、さらに濃い音楽人生を歩むだろうけど、この駒沢のスタジオで培われたものがあっての今後である。

cubic starや、梯子ノ上デ、maikotobranco、最近仲間に加わったゴリアカラスや高島由美ちゃん、小川晃一氏や柳田健一氏の活動は、このスタジオがなくなっても
終わることはない。
また、レーベルも健在だ。

small finger studioは僕らのマザーシップである。
機は熟した。
船から降りて、陸に上がるとき。

新しい勝負が待っていると思う。
この場所で育て上げたものを武器に、この場所への恩返しにもなるように、必ずたくさんの人に僕らの音楽を届けたいと思う。



ありがと、駒沢small finger studio。
ほんとにありがと。

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2013年1月19日 (土)

still alive

2013の世はとっくに動き出している。

他の皆とともに動き出さないのが僕の悪い癖であり、自分自身に助け舟をだすとするなら、それは僕らしさである。


新年の挨拶は省略。
僕は正直な話、新年の挨拶などというものには全く興味がない。
会った人にはしたし、電話でもいくつもしたので、それでいいだろう。
繋がってほしい人ともやっと連絡がついたので、今日はいい日である。



さて、唐突だけども、僕は落語のことはほとんど知らない。
いや、もう全く知らないといったほうがいい。
笑いというのはその国の文化の最も深い部分だと誰かが言ってたような気がする。

小学生の頃だったか、桂枝雀さんの落語がラジオでだったのか、テープだったのか、流れていたのを思い出す。
とにかく話が速い。
で、枝雀さんが何か言うと、どっと会場が沸く。
そんなに沸くもんだから、何を言っているのか気になりだした。
そうなると何度も同じ話を聞く。

ようやく分かってきた頃に、それもたまたまテレビで枝雀さんの落語をやってたので見た。

話のスピードと同じ速さで、変幻自在に表情が変わる。
これが話のスピードと相まって、どんどん加速していくと、ああ、なるほど、息をする暇もなく、小学生の僕でも笑う。
意味分からんでも笑う。

精神の病魔と闘いながら20世紀の最後にこの世を去った怪人は、日本文化の権化のようだと記憶する。



去年7月に僕は結婚し千葉に引っ越してきた訳だが、こっちの方には住んだことが一度もなく、当然のようにミュージシャンの繋がりはなかったので、仕事がないまま鬱々と過ごす僕を復活に導いたtheゴリアカラスというグループの太田充氏と新井ケイヂ氏とともに10月から千葉ミュージシャンとしてちょっとずつレギュラーの活動をはじめた。
今では毎週なんだかんだで会う仲間である。

太田さんは落語に関してとても詳しい。
恥ずかしいことに僕はほとんどの知識がない。
まともに食らいついてみたのは枝雀さんだけである。



話がようやく現在に戻るが。
落語とロックンロールのスピード感に共通点を見出せるのは、日本人であるが故だと思う。
もちろん反対意見を唱える人もいるだろうし、そんな意見に太田さん自身もきっと苦悩もしただろう。

僕は愛国者でも国粋主義者でもなんでもないんで、新宿の街のようにぐちゃぐちゃとどこの国のだか分からん欲望も純粋も飲み込むようなそういうモノを好むから、太田さんの”落語とロックは共存できる”という意見に純粋な興味を抱いた。
落語もロックも僕にとっては練り上げられた”芸術”である。
すでに共通するものがある。


という訳で、1/11、僕は三遊亭兼好さんと初めて会った。
ゴリアカラスのイベントに兼好さんが出演してくれることになったのだ。

兼好さんの落語家になるまでのエピソードがそれ自体、まさに夢のように面白いのだが、それは個々人に検索を任せるとして。

兼好師匠、僕はそういう古くから続く文化の中心に近い人だから、どれだけ習わしのようなものに重きを置いた方であるかと思っていたら、驚くほどに”今”な人だった。

楽屋でもものすごく気さくで、僕らを歳下として扱うこともなく、同じ舞台に立つ芸術家として扱ってくれた。


ライブハウスのステージに設けられた小さな高座。
兼好師匠はいつもならそんな小さな高座に座る人ではない。
大きなホールで大観衆に向かってパフォーマンスをする人だ。

が、名人というのは場を選ばない。
ものすごいスピードで笑いの渦ができる。

ああ、枝雀さんと同じように表情が話とごちゃ混ぜになって次から次に変わっていく人だと、僕は思った。
息をする暇もなく笑いが次々に起こる。


息もできないくらい、身体がきしむような思いを、思えば僕も音楽に求めている。
目眩に近い揺れを起こしたいと思っている。



落語をもとの位置に戻したいと、兼好師匠は帰りの車内で言った。
真意を僕は誤解しているかもしれないが、もしもその真意に誤解がなければ、僕もいつも同じことを言っていることになる。

音楽をもとあった場所に戻したい。
作り手と受け取り手の意思と意思が繋がる場所だ。
ありモノを与えるのが芸術家ではなく、ありモノを受け取るのが聴衆ではない。


僕は急進的な人間である。
ゆえに芸事の世界は不公平であるとあっさり言い切る。
その言い切られる対象にもちろん僕自身も含まれている。
才能がなければ、残念だが生き残れない。
いかなる努力をしたところで。
哲学によって身体が反応して、反応した身体は哲学を強く押し進めていく。

その才が必要である。



思いが形となるのが芸術であるし、芸術は思いが形となったものである。
一人によってなされるものではなく、集団が一つとなって形成されるものである。
形骸であってはいけない。
ファッションでもない。
偶然もなく、ゆえに奇跡ではない。

高いところにいけるかどうかということに対する答えは、”老いぬ限りは”ということに関わってくる。

兼好師匠のスピードからはこの先の老いすら全く予想できない。
人は誰でも年をとるというのに、だ。


ようやく自分にも新しい境地が見えてきた。
戻ってきたというのかもしれない。
そういうふうに感じた。


僕はまだ若い。

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