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2012年11月

2012年11月30日 (金)

starting over

2012年もいよいよ終わりが見えてきた。



11/29、cubic starは原点に戻って来た感じ。
新しいメンバーでの本格的なライブはこれが初めてになった。
cubic star自体、もう100人を越えるお客さんの前でやるのは当たり前となっているように思うが、新メンバーにとってはそうではなかった。


新しく入ったメンバーは、僕がちゃんとバンドをはじめるきっかけになったW大のときの先輩で、maikotobrancoではリーダー兼作家ギターボーカルの幸道隆太(こうどうりゅうた)氏、同じくW大の同期でmaikotobrankoのエレキベース富川源太(とみかわげんた)氏、ひょんなことから意気投合して”梯子ノ上デ”という奇天烈アコースティックポップをやることになった作家兼ギターボーカルのデール・ストロンバーグ氏、青ヶ島出身の和太鼓の達人で多方面で活躍するドラムの名手、荒井康太氏。

付き合いの長い仲間だったり、真に音楽的なところで尊敬できるメンバーなのだけれども、ここ数ヶ月、僕は”もう妥協しない”ということを個人的なスローガンにしてメンバーに話し、リズムセクションはもともとメンバーの松本ちはやと新加入の荒井氏を中心に大改革。
メロディーやハーモニーは、これまたもともとメンバーの岩島のぞみを中心に大きく練り直し。

文字通り一からの再出発をした。


僕の思い描くものは、やはり常識の範疇にないようだ。
僕はおそらく非常識人である。

新しいことというのはいずれも過去の延長線上になる。
つまり過去を踏襲しないものはない。
例えば突然変異にしても、四つ足の陸上脊椎動物がいきなり六つ足になったりはしないように、ただ僕の創造は音を出す限り”音楽”の中にある。

”新しいもの”は、似て非なるものだ。
そもそも過去を知らねば何が新しいのかも分からないし、辿るものを辿らねば新しいことなど必要ともしないだろう。


新メンバーはよく音楽を”聴く”人たちだ。
僕ら音楽家が音楽をやる上で最も大事なことは”聴く”ことであると僕は思っている。
”演る”ことが最重要事項だと思うべきではない。

もう一度みんなは自分たちのルーツを再確認して、キュービックに新しい命を吹き込んでくれた。

僕の言うことはとても分かりにくいものだったに違いない。
僕が”分かりにくいものは分かりやすくはならない”と思っているから。
ポップであるということの正体は決して”シンプル”であるとか、”明快である”とか、そういう通り一遍等な言葉で表せるものではない。
”磨き上げられた緻密な歯車”こそがポップの正体であると考える。
繰り返し”聴く”、”歌う”、”動く”をやって、まるで高圧力で鉱石を磨き上げるかのごとく作り上げるものこそが、珠玉なのだ。
己というものがはっきりあり、かつ強固に他の個性と連結しあわねば、グループとしては強度を保てず、また不揃いは”難しさ”を生む。

一点の曇りもない真っ赤なルビーを、人は”シンプル”に美しいと思う。
ルビーが内包する構造式など誰も考えやしない。
緻密に折り重なった色を分析したりもしない。
ただ美しいと思うのみだ。

芸術もまたそうである。


僕は作家だ。
しかし、その意図を組もうとしてくれるキーパーソンがいたり、分からないことに対して発問してくれるインタヴュアーがいたり、音に対して、あるいはマシンに対して豊富な知識と経験をメンバー内に広めてくれるアイディアマンがいたり、ビジュアルや運営にいつも気を配るウォッチャーがいたりして初めて、僕は創作というチャレンジができる。


僕は単純に驚きたいのである、メンバーの話やアイディアに。
聞いたこともない音楽、やったこともないフィールドでの体験談、訳分かんないけど面白い音がでるマシンの、そんな話。

それぞれにはそれぞれの個性が十二分にある。
その一方でものすごく弱いところもある。
五角形のステータスで、一角突出型ってのが自分を含め、今のcubic starの構成要員であり、だからこそ互いが互いを補完する。
これこそ僕が理想とする”グループのあり方”だ。

平均的な人間を作るこの国の教育が、僕は心の底から大嫌いである。
僕の”新しさ”はそこじゃない。
規格外であり、弱点すらも常識はずれでいいのだ。
そこから何を作り上げるかということこそ、真に創造的であると僕は信じている。


本当の芸術は、人を常識から解放し、方法論を柔軟にし、個人という独自の枠組みを浮き彫りにして且つ異なる個人との連結を補助する。
つまりこれは哲学を持った生き物としての理想そのものだ。

決して大きなことを言っているつもりはないが、難しいことに挑戦するつもりではある。

弱点は己が理解すれば、人間くささになる。
脆さは己が意識すれば、儚さになる。
目を瞑り、あるいは気付かない振りをすれば、人前に立つ資格は自動的に失われる。
僕らはパフォーマーであるからだ。


厳しいレハーサルの中にこれほど”楽しみ”を覚えたことは、多分僕にはなかったことだ。

今、すごくcubic starは刺激的である。
そして辿り着きたい場所はまだまだ遠い。

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写真はお客さんのふるんさんによるもの。

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2012年11月20日 (火)

憂鬱の色

”黄色が似合いますね”とよくいわれる。


同じようにオレンジや山吹色も僕に似合うようだ。


急激に寒くなってきて、今年は紅葉を楽しむ暇もなかった。
寒さは憂いを誘う。


僕の一番好きな色は、実のところ黄色ではない。
海の色、マリンブルーである。

が、僕にとってのイメージカラーは”黄色”と”ショッキングピンク”だ。
この種の色は憂いと狂気の色である。

見た目に明るい黄色には”悲しみ”が含まれていると僕は思っている。
真の絶望も悲しみも、よく言う”黒”ではない。
”希望”があるから望みが失われたように見える、それはまさに憂いだ。
泣き笑いのような色が黄色なのだ。

僕の表現は決して全身から発する歓喜ではない。
憂鬱と絶望を振り払おうとする”泣き笑い”の表現である。

多幸感は幸せに満ちているときに放出されるものではない。
幸せに本気で手を伸ばそうとしているときにその身から放たれる。

きっと生涯を通して自分なりの幸福のあり方を探し求める僕は、憂鬱の中から必死に幸福を感じ取ろうとするだろう。
それが僕の、作家としての音楽であり、僕の演奏家としてのサウンドでありスタイルである。


ピンクは、決して燃え上がることのない炎の色。
炎に憧れを抱き、身を焦がすような狂気の色である。
憧れを捨てることで自分のおもい描く理想を追う、そんな意味合いがある色だと思っている。

赤は戦いの色だけど、ピンクは混沌と狂気。
僕には何の正解も不正解もない。
僕がダメだと思うものはダメで、いいと思うものはいい。
その考え方自体、他人に誤解され、ともすれば嫌悪される原因になるんだろうが、もしもものを作る人間がその価値基準を世の常識にあわせたとしたら、出来上がるものは既知のものとなるだろう。

僕の活動の真意は”提示”である。
これならどうなのか?という疑問やまだ形にもなってないさなぎの中身のようなものを投げつけることが、僕のやっていることだ。

断じて優しくはない。
それは難しいものが簡単にはならないということと同じ原理に基づく。
身に纏いたいと思う何らかの芸術的なものは根底に”狂気”を宿している。
つまり”優しい”ことはない。
優しくないものは優しくならない。

狂気は人を傷つけながら、同時に人を奮い立たせる。


いずれの色も二面性を持っている。


青は僕の理想である。
いつか澄み切った青色の曲を作ってみたいと思うが、今の僕はまだ濁ったまま。

まぁ、ほんとにこころが青に染まったら、僕は音楽を演奏することも作ることも止めると思うし、色も見えなくなるだろう。

だって、僕にとって青は白よりも”無垢”を意味するから。


泥沼の中にいなければものが作れない。
僕はそんな人間である。

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