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2012年10月25日 (木)

great deceiver

もう11月が見えている。


涼しさも通り越して随分と寒くなった。


10月も最後まで、僕はいろんなジャンルの音楽に携わらせてもらうことになる。

ジャンルというと視覚的に区分できるぐらいの”しきり”になるのだが、実際のところ、僕の中にはまるでそのしきりはなく、僕という演奏家ないし作家のスタイルのあり方は、現場を共有している人によって面白いように変わるから、僕自身がそれを楽しんでいる。


共にパフォーマンスをしたり、ものを作ったりする人によって自分から出る音が変わるということはとても創造的だと思っている。
もちろん”僕”という人間はそこにもしっかり残っている。
ただ、僕の耳がそこにある音をとらえたとき、僕の身体はそれに対する音を出すということだ。


発生した音は、必ずしもその音楽にあうものとは限らない。
そして、僕自身もその音楽にぴたりと合うものが出てくること望まない。

”何かが起こること”こそが望むものだ。


知っているものに対する期待は何もない。
知っていてもできなかったことに期待があって、その先に創造を夢見る。

憧れや模倣の中には偉大なる嘘がまぎれている。
”こうであるべき”、”こうだったはず”、”こうすればいい”、そういった類。

知らず知らずのうちに先人たちの作品を手本として、自分を磨いてきたわけだが、よくよく考えてみればいずれの手本も、その人たちがその人たちの作るもののために築き上げたバランスだ。
それはまんま今の僕らに、当然あてはまるわけがない。

インプロヴィゼーションすら、もはや模倣の域だ。


僕らは先人たちの偉大な作品の”虚像”を追っている。
追うという行為は追う対象があるときのみ起こる行為であるから、僕らは追っ手である以上、追われる側にはおそらく一生追いつけまい。
簡単な話だ、先駆者は先駆するものであるから。


作ることは、流れでありながら、その多くは突然変異であるといつも思う。
当然模造品でもなく、亜流でもないから、本来ジャンル化されようもない。


偉大な先駆者は、その強烈な個性で偉大な嘘をつく。
誰かが作った、異常なまでに立体化した音像。
極度にひずんだ音。
コミュニケーションのやり方。
形骸化した芸術そのもの。


パフォーマーであり、作家である僕らがやるべきことは、名盤や名画を”懐古”したり”復元”したり、発掘したりすることなんかじゃない。
これは”学者”のやることだ。
”この作品が最高に良いからこの方向のことをやろう”とその完璧な模造品を作ることでもない。

どこから派生したのか分からないが似てくるものはもちろんあるだろう。
環境を同じくすればそういったものが生まれるのは、生物学的にも証明されている。

ただ、僕らが知力を使って流れを引き寄せられるなら、意思の力で新しいものを新しく作り上げることができるのじゃなかろうか。


これが頂点というものは、言わずもがな、存在しない。
ベストのものが世に出回っているわけでもない。

しかしながら、もし、自分たちの作り上げた物を自分たちの手で世に知らしめようとしなかったら、生み出した命を生み手が自ら絶ってしまうことと同じだと僕は思っている。


僕らにとって、僕らの手で作ったものこそが本物だと思っている。

自分で生み出した虚像に偏愛を抱き、区分にだまされたまま、終わるわけにはいくまいよ。

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