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2012年7月22日 (日)

don't pass me by

僕は、音楽が一番だという人とだけ音楽をやりたい。

演奏をすることだけでなく、どうやってそのグループを軌道に乗せ、どのようにしてその活動を知ってもらうかを共に考え、人の間を走り回ることまでを、僕は”音楽”の活動だと考えている。
だからこれ全てが一番である人と一緒にいたい。


僕はかっこわるいことは絶対にやりたくない。
僕にとってかっこわるいと思えることは、誰もいない暗闇に向かってパフォーマンスを繰り返すことだ。
それでいいなんて絶対に思わない。

こだわりというのは一点においてのみものすごく大事なことで、その他の9割はどうしようもなく凝り固まった邪念だ。

クールにやるということは、その人やそのグループの持つエネルギーが正しく受け手に伝わっている状態でのみ発動するスタイルであって、誰もいないところでまるでそこにこだわっているかのように装って、結局はどこかで見た誰かの真似をやって、何が楽しいというのだ。


音楽は”自分勝手にやれる”表現手段ではないし、”人を孤独にする”システムでもない。
協調によってすべてを紡ぎ、和と輪によって人を結びつける、れっきとした集団芸術だ。

芸術は意味をつけなければ意味などない。
誤解を怖れずに言うが、意味が伴ったとき、不可視の物体は質量を纏って”芸術”となる。
これは不可逆だと僕は考える。

つまり芸術があってあとづけのように意味をつけることはそもそも芸術なんかじゃない。


音楽の核は、人が息をあわせ、繋がり、紡ぐということにある。

作家からメンバーへ、メンバーから受け取り手へ、受け取り手から外の世界へ。
この流れがあって初めて芸術は成立する。
自分たちだけで、あるいはその周囲だけでいいという考えは、そもそも芸術を必要としない。


大きく繋がらなければ作品は完成しないのだ。
自分の自信があって、人の評価があって、人に活力を与え人から力をもらい、人を好きになり人から愛され、人を信じて人から期待されて、そうやって初めて僕らはステージに立ち、そうやって初めて僕らを応援してくれる人たちはともに作品を作る仲間となる。

互いにフィードバックしあい、大きく大きくなって、芸術は自由を獲得する。

自分に都合のいい、ねじ曲がった信念は全く必要ない。
恐怖や不安や疑念を自らの修練で押さえ込み、挑戦し探求し、つねに新天地を目指してやっていくのが活動というものだ。


絵を描けたら絵を書いただろう。
写真が撮れるなら写真を撮っただろう。
詩を詠えるなら詩を書いただろう。


僕は音楽しか出来なくて、でも音楽が出来てよかったと思っている。

哲学があわなくて、きっともう二度と一緒に活動をしないということになった人もいる。
つくれどもつくれども誰にも伝わらず、メンバーにさえ理解されないことなんていつものことだ。
一番好きな音楽が一番嫌いなことになることだってある。

それなのに、僕は”音楽しかできなくてよかった”と思う。
自分を至極中心にして考えるなら、周りの人が絞られてくることを”淘汰”というのかもしれない。
あるいは逆の立場なら、僕は僕から去っていく人たちの世界から切り離されたといえるのかもしれない。


そういう孤独な目にあっても、音楽が僕は一番好きだ。

だから、音楽が一番だという人とだけ、僕は音楽を作りたい。
それだけを毎日考える人と僕は共に歩んでいきたい。

音楽を手に、たくさんの人と繋がろうという意志を持った人と、僕は語り、共に苦悩を分ち、力を尽くして想いを結晶化させていきたい。


通りすがりなんか、大嫌いだ。

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