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2012年6月30日 (土)

”ドン”と”タン”

人の代わりは、他人にはできない。
その人はそこにいるだけでその人たりえて、たとえその人が広く多くの人に知られていなくたって、その人はその人で、その人無しでは生きられない人もいて、その人無しではあり得ない時間がある。


ロックンロールは構成要素の90%が”ドン”と”タン”だと僕は思っている。
それなのにその”ドン”と”タン”は人の顔と同じように、みんな違う。


僕は彼が初めて会ったときから好きだった。
同じ九州育ちというのもあったんだろうか、外っ面物腰柔らかくても、プライドが高くて、いつも一生懸命で、一人で孤独も悩みも抱え込んで、とにかくスピードを落とさないように命を燃やすかの如く走っているように見えた。
それが堪らなく魅力的だった。

彼もまたドラムスの奏者。
僕にはないものを彼がもっていて、僕が欲しいものを彼がもっていた。


同じ”ドン”でも同じじゃない。
同じ”タン”でも全く違う。


彼は自分のことを”喧々”と名乗った。
”ケンケン”のけんの字は喧嘩の喧のけん。
彼はそういった。
はは、僕と同じだ。

無論、本名とは全く違う。

僕は、僕の力でもって、表現を、楽器を、音楽を、ねじ伏せてみたかった。
当然、僕にはそんな力はなく、神様もそんなものは僕には与えてはくれない。

彼にはそれがある、と僕は見た。


楽しげで優しげな笑顔の中に、黄色い憂鬱が混じっている。
笑いながらも入る眉間のしわのはいる彼の表情が、僕は好きだ。


不慮の事故から怪我をしてしまった彼の代わりに、僕が代役を担うことになった。


人の影を追う。
人の影を背負う。

演奏者というパフォーマーの分類は、影を追うものなんじゃなかろうか。
それはいつかの時代の先人であったり、どこかで聞いたことのあるものであったり。


僕は作家に逃げているのかもしれない。

彼のとったパフォーマンスを追いながら、僕は彼のことを何も知らなかったことに気付いた。
彼は影を振り切るように、スピードをフルにして戦っていた。
僕には出せないスピードだった。


たった、”ドン”と”タン”だ。
たかがロックンロールだ。

でも彼は彼だ。
僕にはその領域を指先一つ侵すことはできない。


芸術はやはり哲学だ。
哲学が間を生み、メロディーとなって、心に届く。
肉体労働ではない。


哲学を知ったとき、その人のことをその人だと知る。


僕が作ったものは贋物で、彼の影だった。
でも、歌に救われる。
彼が相方とともに作り上げた歌が、僕の作り出す嘘を中和してくれた。

僕は音源を聴いて、メロディーでもリズムでもなく、”歌”を覚えた。


歌は不可侵にして、不思議なことに全てを包み込むパワーがある。
その二面性は他のパーツにはないものだ。

デュオの構成を成すそのユニットのピアノボーカルの子が歌う歌は本物だった。
本物が嘘を見事に中和する。


本当なら中和ではなく、見事な化学反応が起こっているはずなのだ。


人はそこにいるだけで、”誰か”であり”何者か”である。
だからこそそれだけで意味があって、だからこそ愛しいものである。

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