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2012年6月26日 (火)

thanks for kissing my name

6月ももう間もなく終わる。
梅雨が明けていく。
性急な台風が前線ごと吹き飛ばしたのか、東京の方はたいした雨は降らなかったようだ。
部屋の中で見る雨は好きだが、停滞する前線におし込められているのはやっぱり好きではない。


閉じているという感覚が、僕は嫌いだ。

”自分だけの”だとか、あるようでない”こだわり”だとか。
そんなものは幻想である。

社会的通念に則って潔癖な生き方を全うしているような者は単なる”人畜無害”であって、そういう奴に限って”自分だけの”とか”こだわり”とかを口にする。

ばかばかしい。
背徳行為など日常茶飯事であるくせに、自らの罪を人の罪によって覆い隠す。

それが退屈だ。

演奏の前、もうどうしようもなく一人になりたくなった。
建物の非常階段で煙草を吸おうと動き出したところで、携帯を見ると着信がある。

大切なメッセージに、僕はまだ自らアクセスする能力を持たない。
だから必ず向こうからやってくる。

友人の声はいつも明るさとけだるさの真ん中で、その裏表のなさに”こういう人間が自分の周りにいる以上はまだ自殺の必要はなかろう”と、あっさり思いとどまれるというものだ。

とにかく、僕は退屈持ちだ。
が、その友人の思いつきはどんな時も想像を絶していて、不可能に挑戦するという、退屈とは真逆の莫迦な自分を思い出させてくれる。


”ニューヨークに行こう。”
以上、終了。


僕は、どちらかというと理屈屋だから、いつものように、行く理由を探す。
で、探してるうちに電話越しの友人はものすごいスピードで、僕が国外逃亡する理由を次から次へとあげつらって、最後には僕に、うん、いこう、を言わせてしまった。


僕は、”僕だけのもの”が嫌いだ。
正確には、ある日を境に嫌いになった。

だからといって、何でも喋ったりはしないが。
だって、めんどくさい。
自ら薄っぺらな人生を話す必要もないと思うし。
ただそれだけ。
聞かれれば全部話す、その質問に応じてなら。

”自分だけのもの”などというものなど、この世には存在しない、容易い理解だ。


世界のコアの一角を担うニューヨークには、”自分だけのもの”という概念を思い切り拳でたたき壊せるだけの”シェアの精神”がある。
意志も哲学も芸術も文化も言語もことごとく粉々にされて、さらに再構築され、世界に向けて発信される。


僕なんかが言うことではないかもしれないが、言論の自由が許されているという大前提で言うと、今の日本には大戦後に起こした強力な磁力のような意志の団結はない。

絆という言葉で罪を覆い隠し、デモの体裁で祭りをやる。
最悪のモラルの低下だ。
見ているだけで胸くそ悪い。

正義の名の下で、よりによって人ごときがまるで神のように裁定者気取りで、その下で力を尽くし苦悩する人間が、あるべき位置を退き、はたまた命を絶つ。

”自分だけの”やりたいことの為に、言いたいことの為に、自らの罪を覆い隠して。


シェアは苦しみも憎しみも”シェア”だ。
怒りも悲しみもシェアだ。

甘い汁ばかり、都合のいいことばかりのシェアなど、”自分だけの”だろう。

”あなたの音楽は世界に響くよ”と友人はいつも言ってくれる。
その人のことばに僕は何の疑いも持たない。
掛け値無しの言葉を発する人は、そうそういない。

開演前、たくさんの仲間が駆けつけてくれた。
その日の集客のことを皆口々に心配してくれた。

僕らが立つような場ではないからだ。

場違いな場所にいることも、意にそぐわないことをしたことも、僕は知っている。

分かっているからこそ、だからこそ”自分だけの”場所でないところに立って、そこでもバトルしなければ、僕も、僕らも、もう変わらないと考えていた。


変化のない閉塞感が堪らなく嫌だ。
なぜ安住しようとする?
なぜ戦わない?
なぜフロンティアを目指さない?

出来上がった土地で出来上がったものを出すだけのそんなパフォーマンスも姿勢もくそっくらえだ。


自分の場所だけを守らずに攻めに出た結果が、そうやって心配の声を掛けてくれたり、どんなところにでも駆けつけてくれる人との出会いなんじゃなかろうか。
僕の内側にあるコアな音楽には一切の言葉はない。
それでも手を伸ばし、それを掴もうとしてくれる人がいる。

その人たちがどこにいるかなんて、僕らが安住の地にいては永遠に気付かないだろう。
気付かないまま生きていくのなんて、とにかく嫌だ。


待ってるんじゃなくて、先導することが、作家だし、オピニオンリーダーだし、それこそ芸術の持つ最大の力で、それができるのは政治家や著名人なんかじゃなくて、”芸術家”だけだ。

自分のやりたいことだけを守るのは芸術家のやることじゃない。
人の意志の、あるいは歴史の、時流の、巨大な器となるのが芸術家であると僕は思っている。

他人の欲望を満たすんではなく、人の革新を先導することこそだ。


人が嫌いであり、人が好きだ。
みんなが幸せになればいいと口にするだけの奴が嫌いであり、みんなが幸せになればいいと願い地べたを這いずり回る人が好きだ。


変えたい。
自由は歯車のように緻密に噛み合って成立するもので、無秩序を意味する言葉じゃない。


まだこんなところで弱くはなりたくない。


特に理解されようとなんかしない僕に、それでも理解をしようとしてくれる人に、ほんとに心から感謝している。


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