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2012年5月

2012年5月31日 (木)

ensemble

芸術だアートだというが、それそのものに意味があるわけじゃない。
いつもそれに意味をもたらすのは人だ。
人が作品に命を吹き込む。
だから時代が変われば、その時代の価値観にあった意味が加味される。

それが普遍的である証なのだ。
人の意志によって新陳代謝がなされ、常に新しく生まれ変わり、時間を超えていく。

つまり、発せられたものは、必ず人に関わらなければ画竜点睛は欠かれたままだということだ。

”いいものを作った”、”うまくいった”。
その自己満足のレヴェルは絶対に必要なことだ。
これがなければ、まずものは作れない。
が、これで終わるものはあまりにも幼稚だ。

そうやって作られたものが真に意味を持つ瞬間は、”自分の手から離れる”、まさにそのときだ。

僕らは社会に生きている。
世に対して発すし、関係性を築かねばなるまい。

触れられなければ、埃にまみれたゴミに等しいのだ。

人は、他の手段でもその人の生きた証は残せる。
わざわざものを作り出すことはあるまい。
では、なぜ、”ものを作り出すこと”を選択するのか。

少なくとも僕は、作り出したものの先に、まだ見ぬ人とのコミュニケーションを期待する。
生きる場所も価値観も国も文化も違う、純粋に人同士の出会いだ。

そうやって出会うことはいつも感動的だ。

そればかりは、経験するよりほかはない。
いくら言葉で語っても分かり得ない。

だから続けるのだ。
だから作るのだ。

自分すらどうなるかわからないものを作ることが、”作る”ことだ。

己のやりたいことをやるのは”趣味”である。
間違えるな。
プライドのありかはそこじゃない。

誰にも触れられないものを、何の期待もされないものを、”芸術的”だなどと、何をかっこわるいことを言うのだ。
その考え方そのものが、世界の崩壊に加担していることになぜ気付かない。

新しいバランスを生み出すことが、いつの時代でも僕ら作家の”義務”なのだ。

美しいものは美しいものではない。
秩序立ったものはただの数式に他ならない。

世界を見渡せばいい。
ノイズだらけだ。
入り乱れて、コントラストを成すことがこの世界の強さではないか、ほんとの美しさではないか。

細い糸にしがみついて、それしかない者は、誇大妄想家であって、現実にすら生きていない。
莫迦らしい。

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2012年5月30日 (水)

burn out

状況は変わっていく。

僕も、僕の周りも。


変わらないことは良いことなのかもしれないが、僕は変わっていきたい。
それを望まない人もいるだろう。

きっと僕はその人たちから離れていく。
もともと人の出会いはすれ違いのようなものだ。

道を違えることの方が、戦争するよりはましだろう。


それが良いことなのかどうかは分からない。


でも、それでいい。
”昔はよかった”とはいいたくない。


今が悪くても、未来によければいい。
今がよくても、それを維持する気はない。


日々変わっていけばいい。
燃え尽きるのなら、それでもいい。


さようなら。
そして、こんにちは。

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2012年5月21日 (月)

feather

言葉は、軽い。
そんな軽いものを、重くて意味あるものに変える錬金術を持っているのが物書きだったり哲学者。

そうはなれない僕の言葉は軽い。

経験による言葉も、それを経験したことのない者にとっては、文字通り馬の耳に念仏だし、言葉は虚しく宙を切ってどこぞの彼方に流れてしまう。


多分、躯という器に入っている以上、人は真に繋がることはないのだろう。


大切な人がまた、自分の元から去っていく。
僕らの間にはある種の理想的なコミュニケーションがあった。

が、僕は彼の量子力学的な存在を変えることはできない。
僕の背後に立つ彼の姿や思いを僕は結局分かってはいなかった。

理想は理想である。
ゆえに一生涯追い求めるのだ。

もどかしいが故に夢を見る。
夢がなければ人は人である意味を失う。
どんな小さなものでも、夢は夢だ。


僕には力がたりないのだ。
だから言葉も軽い。


この悔しさは、この寂しさは、つまり己の無力さなんだろう。

やはり、自分も、去るべきなんだろうか。


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2012年5月17日 (木)

liar

思うこと、考えることを、曲げることなくそのままのかたちで外に出すことは難しい。
言葉にしただけでも、もう考えていることとは違ってくる。

内部のものは外部のものに変換するにあたって、たとえば身体能力であったり、語彙力であったり、そういった酷くプライベートなものによって左右されて、それを発する自分ですらもはやコントロール不能となる。


苦しいと思う。
でも言葉にしても、それを誰かに伝えることはできない。

辛いと思う。
もう”辛い”という言葉自体が曖昧で、いくらでも拡大解釈され、あげくそれを受け取る個人の経験によって処理され、”自分も辛いよ”などと莫迦な答えが返ってくる。


糸口を見出すべく発露したものは、同情と同族意識とがぐちゃぐちゃ混ざった、なんだか意味の分からないものに取り込まれて、あろう事か、受け取り手側が悲劇願望を成就して終わる。


手を差し伸べるということは”権力を貸す”ことじゃない。
ぬくもりを伝えることだ。


人はものではない。
植木に水をやるようなイメージで、人という鉢に札束差し込んで投資投資といっても、人なんか育たない。
張り子の虎を作るように骨組みに金銭を貼付けまくっても、人は強靭な生き物にはならない。

それはものの扱い方だ。

ほんとは、莫迦なのは僕かもしれない。
自分に余裕があるわけではないのに、好きなものを信じて、それをやっぱり掬いあげたいと思ってしまう。

自分のことはろくにできないくせに、好きになった人たちの為に、その人が作り上げる世界に一つの夢を抱いてしまう。


生活能力か、あるいは生活そのものの価値観が薄い僕は、多分人間としてはもうとっくに破綻してるんだろう。
ずっとずっと小さい頃から、僕はそういう人間であるということをとっくに知っていたような気がする。

我が儘なんだろう。


辛いことを辛いと言えなくなった。
言ったとしても、なんだか現実味がなくて、まるで挨拶のようだ。
”ああ、すんません、明日からいなくなるんで”程度の、まるで伝える気のない、軽い冗談。


僕が、いかに自分のことをろくすっぽ考えてきていなかったかが分かる。
我慢が身にしみていて、しているときにすらしていることに気付かなかった。
多分今も。

これが嘘の正体なんだろう。

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2012年5月14日 (月)

the end

人は人であり続ける以上、体力も気力も無尽蔵ではない。
いつかは力尽き、いつかは灰となる。


”恵まれている”という言葉に腹が立つ。

裕福であるから、環境があるから、その他諸々がそなわっているから我が儘が言えて、我が儘ができるだと。

巫山戯んじゃねぇ、冗談じゃない。


意志があり、言いたいことがあってはじめての発露であり発言だ。
いかなる状況であっても、僕は同じことを言うし、同じことをやるだろう。
それが僕の意志である以上。
それがやれると思う以上。

そうやってやってきた。


すべては葛藤だった。
言葉では言い切れない。

ただただ、違う、そういうことではないと、言い続けて、必死になって走り回って理想を追い求め、ときには自分に嘘をつき、痛みを押さえ込んで、ただ前だけ見ては知ってきたつもりだ。

苦しみは自分だけのものだ。
きっと誰にも分からぬ。
言葉にならないから苦しいのだ。
言うことなど、何もなかった。


もし、終わりが来たら、それはそこまでだ。
僕の力が、才が、及ばなかったということだ。

人を生かし、また、人によって生かされるからから、また人を生かすことができる。

その循環が成り立たなくなったとき、それが僕の賞味期限だ。


つまり僕は”一人”なのだ。
寂しいとか、そういうことではなくて、”何の信頼も信用もない、その人の周りには誰ももういない、手を差し伸べる価値のない、共にいる意味のない”、そういう意味での一人なのだ。

去る時は一人だ。
そこには人はいらない。

人生は個人のものだ。
幸せも至極個人による。

信じるものを信じて生きるべきだ。


僕は、もっと僕自身に対して正直であるべきだった。
ついた嘘が多すぎた。
好きな人すら幸せにできない。
大事な仲間ですら守れない。


我慢は美徳などではなかった。
それは結局自分についた嘘だった。


それが限界なのか。
それが世界の端っこなのか。


あと少し、残った知力と体力で走りきってみようと思う。
それによって起死回生の変化や開く未来もあるかもしれない。

なければ、それで終いだ。

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2012年5月10日 (木)

nothing in my hands

なぜ、何かを生み出そうとするのか。
なぜわざわざ人前に立って物を言おうとするのか。


僕が弱い人間だからだ。
強い人間であるなら、僕は部屋に閉じこもって自分の内側に向かって疑問を投げかけたり、こうでありたいと願いながら作品を織っていくようなことはしなかっただろう。


”こういうものが聴きたい。”
”こういうふうにならないのか?”
”昔の方がよかった。”
”もっとこうすればいいのに。”

それは僕にとっては期待ではない。
僕は生きるという上で、いつも過去を捨てて、いつも前に進んでいる。
来た道を振り返ることはしない。
反省は個人のものだ。僕一人でやる。


好きなものを聴きたきゃ、好きなものを聴けばいい。
僕が作るものは、まず僕のものだ。

昔の方がよかったというのなら、なぜそのときには聴きにこなかった?
理解しようとしてはくれなかったのだ?


そして、それを今の僕が、そういったことに対して”どうして?”ということによって何か変わるのか?
変わるわけがない。


後退などは、僕が”僕は生きている”と自覚しているなら、するはずない。

全てに疲れ、誰も信用できなくなって、”もう活動はやめるんだ”と僕が口にしたのは、決して冗談なんかじゃなかった。

”ありえない”ってなんだ?
ありえんだよ。


無尽蔵に精神的なエネルギーを発せるわけではないのだ。
無神経に発せられた言葉や態度に僕は疲れた。
それが信用していると思っていた人ならなおさらだ。


僕は、たとえば誰かが持ってしまった”僕”のイメージとは、全然違う。
理解を望むことは難しいどころか、無駄だと思った。

理想はあくまで個人の妄想である。
押し付けられる義理もないし、こちらからもそんなもの押し付ける気など毛頭ない。


物を作る人間は、いや少なくとも僕は、壊れやすく脆い。
それすらも分かってはもらえないだろうが。

自己犠牲なくして、”力を貸す”なんて軽々しく口にするもんじゃない。
こうすればよくなるなんて言うもんじゃない。

僕にはそれはノイズだ。


ただ、物理的にではなく、真にいつも僕の側にいて、僕を導き、手を差し伸べ、自分を犠牲にしてまで掴んだ手を強く握り続けてくれる人たちに、どう恩を返せばいいのかと悩む。

要は、僕にはまだ、何もできないということか。

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2012年5月 5日 (土)

from ideas to actions その3 "loveless"

気温があがると、不思議なことに世界の音がざわざわと聴こえる。
寒い時期、世界はたしかにもっと静かだ。

暖かくなるにつれて、きっとたくさんの生き物が動き出すからだろう。
やっぱりどんな生き物も、生きる音を発し、鼓動がしっかりとビートを刻むもののようだ。

やがてそれらの音は混じり合って巨大なノイズとなるが、なぜこのノイズは耳に優しく入ってくるのか?
それは間違いなく大きな音のはずであり、ものすごい力で空間を支配しているはずなのに。


ノイズという観点で音楽を聴くきっかけはある日突然訪れた。
いつどこでそれが興り、どういう経路を辿って市民権を得たのか、おそらく少しその当時の環境やカルチャーを調べればすぐに分かることであろうが、僕はあえて調べることをしなかった。

なぜなら、ノイズは偶発的に生み出される音の集合体であると、そういうロマンチシズムをいつまでも信じたいからだ。





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”万人が当たり前のように聴き、知らなきゃモグリだ”とかいうくだらない口上は垂れないことにする。

その上で、このmy bloody valentineの”loveless”は全くもってスタンダードなんかではないと断言しておく。
マスターピースなんかでもない。
これが歴史から消えようが、そもそもこの作品がなかろうが、断じてミッシングリンクなんかにはならない。

カンブリア紀の異形の生物の様な位置づけだ。
真の意味でこの作品に”フォロワー”はいない。
真似などできない。

だからこそ、この作品が真に芸術品であると僕は思っている。

そういうわけだから誰がつけたか知らないが、”シューゲイザー”なんていう莫迦な冠がとてつもなく気に入らない。
靴など見つめることはない。


この作品が見つめたものは、間違いなく未来につながる可能性だった。

これほどまでにストイックに純粋なノイズというXの要因をコントロールしようとした試しは過去に例を見ない。

マイルスデイヴィスが、ビッチェズブリューにおいて迫ったカオス的なノイズは、飽くまでも”ハーモニーの解体”に根ざしたものだった。
つまり、ノイズのコントロールとは根本的に発想が違う。


楽器を装置として考えたとき、人はその装置によって何を引き出すのか。

楽器は常に人に音を与える。
さらによりよくそれを鳴らすために”身体的訓練”という制約も、同時に人に与える。
が、人が楽器に対して違う可能性を見出したなら、、、。
そこからがノイズだ。
つまり統計的な考えから文字通り解放されて、分析不可能な、処理の施しようがない”ノイズ”になる。

こんな音楽の聴き方はそれまでやったことがなかった。

明らかにタブーのはずのものを、最大の魅力として使う。
それこそが新しい可能性だった。

かといってそれがメインではない。
核となるものはやはり珠玉のメロディーだ。

このアルバムの信奉者はとにかくたくさんいるようだ。
が、あえていうなら、これは”信奉”などするものではない。

これは”小さな部品”だ。
部品を憧れの対象にすることほど莫迦な話はない。

ここにはたくさんの部品が詰まっている。
僕はこの作品を解体することによってほんとに多くのアイディアを得たし、ときにはそれに抗うように全く違った観点からノイズを考えるきっかけにもなった。


光を当てるなら、ガラスケースに入れたままにしていてはいけない。

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2012年5月 2日 (水)

桃色の蜘蛛

5/1は自分の生まれた日だ。

僕は父母が僕を生んでくれた歳を、もう数年上回った。
二人はきっと僕をこの世に送り出す為に、生活の基盤を整え、人としての深い考えを身につけ、努力に努力を重ね、迷いに迷いを重ねたに違いない、とそう思う。


自我が自らに芽生えるというのは神懸かり的なことだ。
それまでの僕はこの世にいながら、僕は僕のことを知らなかったわけだ。

両親は文字通り、僕に”魂”を吹き込んだ。
それが僕の人格である。


創造主は完璧ではないそうだ。
神仏にも葛藤や煩悩がある。

ゆえに、僕には神がおらず、仏がおらず、僕という存在は純粋に遺伝子の継承者であり、遺伝子の継承はすなわち哲学の継承である。

父母が僕を作ったのだ。
それが僕の最大の誇りだ。


生は”絶え間ない創造”である。

死は、命の終わりを意味するものではなく、”人々がそれを継承しなくなったときに訪れる終わり”だ。

つまり、誰かがその人の意志を継ぎ、あるいはそれを元に新たな挑戦を試みるなら、定義として”不断の創造”と内包する生に終わりは来ない。

僕の意志はきっと僕だけの意志ではなく、僕の中を流れる血の意志であり、僕と繋がる人たちの意志の一部である。

大義名分なくしては、もはや自分の動きは何の意味も成さない。
自分がいかなる人間であるかの探求こそ人生であり、それが分かる日にはきっともっと大きな意味を知ることになると思う。


もう10年以上も前の、5/2に散った巨大な創造の塊は散り際に言った。
”涙も雨も砂に飲み込まれる”と。
”生き溺れても、また春に会おう”と。


意志は死なない。
無限に広がり、可能性を極限まで押し広げて、膨張する。


自分の生まれた日に、毎年のように考える。
僕はどこまでいっても、一人の人間である。
また時に、邪悪を信じたくない、見たくないと、目を覆うように一心に地獄に向かって桃色の糸をはき続ける桃色の蜘蛛である。

人の善意を信じたい、真に強靭な生き物であることを信じたいと思うが故の盲目であると分かっているのかもしれないが。


人とは、うまれてくる瞬間を思い出せば、誰しもそういうものではなかろうか。

善意と感謝とぬくもりの中から生まれてくるはずだ。
愛のないものなど、それこそ作り物なのだ。


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