« 手からこぼれる。 | トップページ | Mの系譜 »

2012年4月 4日 (水)

リアルスターの悲劇

4/3(火)。
嵐の夜だ。

こんな大荒れの夜には実際に外に出て、その風の強さを体感したり、雨が強ければ、河の氾濫を見に行きたいという気持ちに駆られる。

人は危険に近寄りたがるものだそうだ。
平穏無事な一連の流れから抜け出し、命を試したくなるのだそうだ。


リアルなものにはそれ相応のリスクがある。
五感全てでものをとらえるからだ。

発する方も受ける方も、そこでは”一方的”という安易で楽な繋がりではなく、何かを問われれば何か答えを返さなくてはならない。


様々な情報がインターネットをはじめとする手段で、ここにいながらすぐに手に入れられるようになった。
人は人とのコミュニケーションを必要とせず、機械的にキーを打ち込み、手に入れたいものが手に届くのを待つ。


会話に言葉が必要なくなる。
それは人としての尊厳の消失といってもいいほどの重大事だ。

現場で空気に触れ、五感が震えるような経験がなくなる。
”今”はもはや今ではない。

バーチャルな感覚の中に生きて、無意識のうちに周囲が消失し、己だけの世界になる。
人はそこで自らを環境の創造者と錯覚する。

僕は音楽家だ。
求めるものは常に今その場で感じているものであり、それが全てだ。

”百聞は一見に如かず”というが、現代において、意図的に切り取られ、制限された枠内で見るゴミのように垂れ流される動画や文章の”一見”が何の役に立つだろうか。

己の足でその場所へ向かうことを止めて、”一見”を得ることで何が把握できるのか。


一見を”一験”にしなければならない。
己の顔をさらし、己の口でものをいい、己の手でぬくもりや痛みを感じなければ、もはや僕らは人間であることは愚か、生き物としても成立しない。


言葉には必ず誤解があり、触れればぬくもりを知ると同時に傷つくこともあり、芸術には日々の鍛錬とは無関係に無理解がある。

それこそが真の姿であって、だからこそ、人は進化する。

その真の姿を、堕落と安易な制限から解放したい。
僕は、コミュニケーションを、人との繋がりを、芸術を、力を尽くして元あった場所へ戻したいと思っている。


喧嘩の相手すら分からない現代に嫌悪感を覚える。


もう一度、元あった場所へ。

|

« 手からこぼれる。 | トップページ | Mの系譜 »

普段」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/482886/44744619

この記事へのトラックバック一覧です: リアルスターの悲劇:

« 手からこぼれる。 | トップページ | Mの系譜 »