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2012年3月20日 (火)

聖域に立つ資格

すっかり3月も下旬。

あっという間に時間が過ぎて、窓から外を見ると、家の前の公園の桜はつぼみを一杯に膨らませて開花のときを待っている。


1月が年の始めではあるが、僕にとっての1年の始まりはどちらかというと4月だ。
つまり、必然的に3月が年の終わりということになる。


1週間ぐらい前だが、詰まりに詰まった合間を縫って、とある演奏を見に行った。

演奏自体あまり見に行くことはないのだけど、その人の演奏はどうしても見たかった。
パフォーマンスを見るということにこれほどの期待と興奮を覚えたことがここ数年あっただろうかと考える。


たくさんの期待。
人が、どれぐらいそこに居たかは分からないけど、間違いなくみんなが彼に期待する。

彼は待ち望まれて舞台に立ち、降り掛かる大きな期待さえも軽々と振り払って、ものすごいスピードで高く高く舞い上がるかのように、身体を揺らし、声を上げ、一瞬にして新しい世界を作り上げていく。

スティックの先がシンバルに衝撃を与える瞬間、彼が息を止めるのと同じように僕も息をのみ、回転して交差する両手が握り込まれるのを見て、僕の手もまた自然とその手にスティックを握る感覚を覚える。

パフォーマンスは、たしかにもともとはその人がやりたかったものなのかもしれない。
音楽をやりたくて、それが楽しくてやっていたに違いない。

が、僕の目にしたパフォーマンスは、自己の感情を完全に外に解放した、”望まれた”ものだった。


たくさんの希望をのせて、そこからエネルギーを得ようとする人の思いに応えるように演奏をする。
しかも彼のパフォーマンスは見事なまでに彼そのもので、”作られた彼”ではない。

ショーマンではなく、彼は瞬時にものを生み出す、まさに真の芸術家だった。

僕は僕のために音楽を演奏しているのか。
誰の期待もないまま、自分がそれをやりたいというだけでステージに立ってきたのではないか。

期待が大きくなるからこそ、ステージに上がり続けられる。
その期待もないのに、ほんとに自分の満足のためだけに、僕はパフォーマンスをしてきたのではないのか。


一体、僕のパフォーマンスのどこが社会に対しての貢献になるのか。


明日への糧となり人生を豊かにするものが芸術だとするなら、僕の作ったものは、僕の出した音は、一体どれだけの人に力を与えられたか、どれだけの人を幸せにできたか。


灰になるまでこの手で己の人生全部を表現するために歩を進めるか。
それによって誰かの日々を豊かにできるほどに、僕は僕を磨き上げていく。

はたまた、ここで終わりだと自ら幕を引くか。
己の欲望で、それがやりたいというだけで、人前にたったふりをし続けて、僕は僕の大好きな音楽を穢したくはない。


ぼくにとって、毎日毎日がその葛藤の繰り返し。
だらだらと続けるという状態は、僕にはあり得ない。

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コメント

よっしーのドラムスは俺を魅了してならない。そして俺と一緒に演奏している姿を大勢のオーディエンスが楽しんでくれているよ。三井ホールの700人の観客の拍手がその証だ!最高のエンターティメントだよ、君は!

投稿: Kentaro | 2012年3月20日 (火) 21時18分

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