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2012年2月

2012年2月18日 (土)

残る感触

難しいものは簡単にはならない。


便利で、単純で、都合がいい。
これがもしほんとに人の求めるものだとしたら、僕らはもはや進化という最大の好機を自ら手放し、癌化の一途を辿っている。


物事には必ず陰陽の二つの側面がある。
一つに寄り、視野が狭まれば、思考は死ぬ。

飽くまでも多角的にとらえ、悪い部分を見るよりいい部分を大きく取り上げる。
それは日和見のような楽観ではなく、思考を永続的におこなうための重要なファクターだ。


恩師と文面だけではあるが、珍しく世間話のようなものをした。
世代の違う人の意見というのはいつも自分に新しい側面を教えてくれるし、そのコミュニケーションこそ、今時分最も欠けているものだと思う。

時代を築いてきた人たち、これから次代を担う僕ら、そこに大きな隔たりがあるのは”話さない”ということが原因であることは間違いない。


衝突は怖れない。
無知による無理解を僕は怖れる。

知らない恥を一生続けるより、意見の衝突の向こう側に見える相互理解を信じてみたい。

そんなこと思いながら、今日は昼から演奏だったわけだが。
出会い、人を知る、それだけで自分にはまた歩けるフィールドが増えていく。

お客さんは、音楽に携わる人、演奏はしなくても音楽が好きな人、多種多様な生き方で、職業も全然違ってて、日々のいろんなことを自然に話してくれる。


楽しい想いは伝播する。
共に考え、共に生きることは、たとえ遠く離れていてもできることなのだと実感する。

いつも彼らのことが気になる。
いつも彼らは僕のことを気にかけてくれている。

持って帰ってもらうものは楽しかった思い出だけではない。
その手に感触が残るほどの”出会い”であってほしいと、僕は思っている。


僕もまた、その出会いの歯車の一つ。

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2012年2月13日 (月)

one note

あっという間に2月も半ばにさしかかる。
飛ぶように時間が過ぎる。

柔らかい日差しがなんだか春のようだが、気温は相変わらず低く、風はとても冷たい。


実りのある時間は、その裏側に途方もない苦労を隠している。
どれだけの時間をかけ、どれだけ思い悩んだか、過ぎ去ってしまった今ではもう思い出すこともできない。

いつかきっといつかきっとと思いながら、たったワンフレーズか、あるいはたった一音か、それをひねり出すのに今でも執心しているが、誰にも届かなければ泡に等しい。

文字通り、浮かんで消える。


僕には、たった一音で視界が一変した経験がある。
今も覚えている。


音は水中にあれば、半永久的に振動を持続させる。

音楽に対する僕の意識は、水の中と同じ。
鳴り響く音を、あの感動の瞬間からずっと聴き続けている。


発音と同時にフロアにいる人たちからのフィードバックが返ってくる。
僕らはステージ上にあって、それを受け止め、また受け返す。
また返ってくる、受け返す。

そのやり取りに時間差が無くなった時、無くなったところ、そこが無限の可能性だと僕は思っている。


口にして言えることは月並みだ。
だから僕は結局物書きには成れなかった。

音なら口ほどにものを言えるか?
僕にはそれも難しい。


音楽が共通言語かって?
音楽が言語だなんて、そんな意味不明でロマンティックなもんじゃない。

でも、音を介した振幅が人の心を揺らすなら、それは言葉以上の伝達手段と成る。

人の祈りが見えるだろうか?
人の激しい感情が見えるだろうか?
人の息づかいが聴こえるだろうか?
人の鼓動が聴こえるだろうか?


まるでソナーのように心の動きをとらえて、想いが共鳴すれば、全てがいいグルーヴになる。
否定も反発も無い、純粋な享受、世界を変える力。


僕はまだ小さい。
僕らはまだ小さい。
何も知らない。

僕の音楽は飽くまでもタイニーミュージックだ。
が、僕を取り巻く仲間がそれを限界まで大きく広げていく。
楽器を手にし音を紡ぎ出すパフォーマーも、フロアで声を上げ身体を揺らすオーディエンスも、みな一体と成るからこそ。


神様など僕には降臨しない。
人が力をくれるのだ。


絆など存在しない。
間違ってくれるな、それはみな、もともと生まれ持った”繋がり”を自ら手放し、再び探そうとする、故意に特殊化した作業だ。


そんなもの、わざわざ名前など付けずとも、僕らは始めから持っているはずだ。

隣を見ればいい。
誰も同じ道など辿ってきてはいない。

が、共にビートに揺られているではないか。
時間と空間を共有しているではないか。


それが音楽だ。

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2012年2月 9日 (木)

anything you want

年度末が近づいている。

この時期はいつも闇だ。


1年を振り返るのは年末より、どちらかというと年度末の方だ。
どれだけ去年と今が違うのか、考えてみると何も変わった気がしないのだ。


本来、歳を重ねるにつれて末広がりになるのが理想のはずだろうに、どうやら僕の場合は全くそんなことはなく、歳ともに責任ばかりが重くなり、やることばかりが増え、不安を通り越して一足飛びに面倒くさいから死んでしまうかなどと考えてしまう。


結構そんな軽い気持ちなもんだから救われているという部分もあるが、その反面で、何故今のこの酷い現状に齧り付いているのかと自問自答する。

自分の手に入れたい物は何なんだろうか。
もちろんいうまでもなく地位とか名誉とかではないし、ああ、お金か、あったら楽だろうが、生活水準があがればそれに見合った支出が増えるだけで、パーセンテージが変わらんなら今と大差ないような気もする。

一つのことに没頭する時間というのは、事実上存在しない。
簡単な話だ、生きていくためには一つのことだけでは足りないからだ。

あれもやってこれもやって、気付いたら僕は爺だろう。

誰かが何かをやってくれるとか、そんなふうに都合のいいことは起こりえないし、自分がもしそんなふうに考えるふざけた人間に堕ちたとしたら、一番に自分に嫌気がさして、ガス管でも口にくわえて爆発炎上してハイさよならだ。

欲しいものを手にすることは、どうも、僕にとっては命がけみたいだ。
何が楽しくてこんなエクストリームな考えに毎日取り憑かれているのか分からん。

ただ、退屈が死ぬほど嫌いで、問題解決の糸口を考えるのは好きで、でも、問題が僕の許容量限界に迫ってどこから手をつけていいのか分からない状態に今あって、、、。


もしかして、このカオス感が僕の望むものなのか?

”おまえの欲しいものなんでもやるよ”が今の常識なのか?
与えられ過ぎてて分からなくなるのが、現代における幸福なのか?

僕は止むことなくイライラしている。
自分で全てコントロールしたいのに、要りもしないものを次から次へと山積みにされて、訳分からんルールをさらにいつ変わったか分からないうちに変えられて、結局それで何が変わったのか分かりゃしない。

欲しいものなら何でもやるよ、だと?
保証だ?保険だ?

冗談じゃない。
生きること自体、一撃必殺なんだよ。

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2012年2月 5日 (日)

侘び、詫び

1月は行く、2月は逃げるという。

2月に入った。
活動は日に日に濃密になっていく。

おもにcubic starのことだが、この年度末に入ってくる忙しいときに、僕は活動のお知らせメールをみんなに送らねばならず、受信されている方々に大変な迷惑をおかけしていることをここでお詫びしておきたい。


営業というのは実に大変な作業だ。
たとえいいものを持っていたとしても、人に知られなければそれは人に必要とされず、知られるためにはそれをいらないと思っている人にまでお知らせしなければならず、それを繰り返し、統計を取るというのが、まぁ、一般的な企業のやり方だろう。


衣食住に関することですら、そういった営業的なものは難しい現在、最も資本主義と相性が悪いと思われる芸術品を売り歩くことの、なんと難しいことか。
思うにそれは、ほとんど不可能事項である。

僕にとって、音楽はやっぱりどこまでいっても”商品”ではない。
たくさんの想いや苦悩が詰まった、そんな結晶でしかない。

作ることに没頭すれば、ときどき人であることすら忘れそうになるぐらい、いつもは隠したいと思っている自分の弱い面や嫌な面が全面に表に出てくる。
人には見せたくない部分ばかりが出てしまう、創作活動の現場での僕はきっと鬼なんだろう。

時間が経ち、年をとればとるほど、その鬼の面は深く色濃く表出してくる。
時間をかけて押さえ込んできた己の弱点が、ここではむき出しになる。

と同時に、もっと高く、もっと広く、より創造的にものを考えたいという欲求も強くなってきている。


優しく生きていきたいと思ってきた。
今もそう思う。
が、どうやら僕の器ではそれは全く不可能のようだ。

優しさと安定を犠牲にして、修羅だか鬼だかと、創造したいとか表現したいとかいう強い熱を手にしている。

二つを手にすることのできない自分はつくづく才能のない人間だと、情けなくなる。


ある時振り返ると僕のそばには誰もいなくなっているのではないかと思うときがある。
今の僕は傍若無人なのではないかと、常々思う。


人を置き去りにし、思いやりに欠け、ただただ一心に道の先だけを見据えて進む。
取り憑かれているんじゃないかと。


活動のお知らせをするためにメールを打つ。

僕は一斉送信なんていう便利は嫌いだ。

一人一人にメールを打つときに、一人一人の顔を思い出す。
”どうしているかな”と思いながら、無精者な僕の長い間の無沙汰を心から反省する。

僕は正しく人と繋がっているだろうか?

そんなことを考えながらみんなにお知らせして、数日、たくさんの人が返信をくれる。


このやり取りが唯一僕を人につなぎ止めてるんだということを、最近はもっぱら思う。

音楽を聴いてほしいというよりは、意外とこのやり取りが好きだったりするし、孤独を忘れられるときでもあるのかもしれない。
誰かのことを思い描くと、心が落ち着く。

この仕事は”自由”ではない。
自分を何らかの役割の中に押し込む必要がある。
何の安定性もない。
何の保証もない。

ステージの上の自分は、完全に武装解除された弱い一人の人間だ。
完全無欠のヒーローなんかではなく、毎日積み重ねてきたものだけを手にして立っている弱き存在である。

言葉が返ってくる。
”いつも気になっています”と。

離れかけた意識が戻ってくる気がする。
しっかり理想を背負って、もう一歩前に進みたい、と。

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2012年2月 1日 (水)

豊饒は冷たい雨を伴って。

ブログという手段にプライベートな物言いが許されるものだと思って、書き記しておく。


夢はその日のうちに移り変わっていくけれども、理想は永続的に変わっていくことはない。


パフォーマンスをすることはほんとに驚喜すべきことだ。

なんと言えばいいのか分からない。
が、あの伝播する感じは間違いなく、パフォーマーもオーディエンスもほぼ同等の体感度合なのだと思う。


たった一人の人に自分の想いを伝えることですら難しい。
それがもっと多くの人に伝えるとなるとなおさらだ。

無機質を装い、スカした感じになるのはごめんだ。
熱に任せて、狂気に取り付かれた役を演じるのは大根役者のすることだ。


僕は、このままでいたい。
例えばその日、怒りにと取り憑かれていたとしたら、そのままの気持ちでパフォーマンスしたい。
怒りすらも共有してみたい。

溢れ出るようにハッピーな出来事があったとしたら、それもそのまま。
悲しみに暮れるようなことがあっても、それを隠したくはない。

印象的な物語など、僕には全く必要ない。
わざわざ括弧でくくり出さずとも、僕は”覚えている”。
そんなことは僕にとっては当たり前だからだ。

僕は何があったかを口にはしないだろう。
想いを私物化することが僕の理想ではない。

叩きたいなら叩いてくれていっこうに構わない。

”超少数派の弱きものたちに同情の意を述べて、何を実現させるつもりだ。”

こんなことだけは絶対にしたくない。
弱いけどそのままでいいとか、そんなどうでもいいことなんか伝播させたかない。

マイノリティーは悪じゃない。
孤独を纏った旅人のようなものだ。

マジョリティーは全てを動かす権利を持っているわけではない。
烏合になることがほとんどだ。


ただ、共に行こうと手を差し伸べるだけだ。
己の判断を下し、己の足で立って歩いていこうと促すだけだ。
歩けなくなったら、自分をおいていけというか、それでも自分は行きたいというか、二つに一つ。

前者なら僕は別れを告げ、後者なら僕はきっと身を犠牲にしてでも背負って先に進みたいと思し、その力が欲しいと願う。


今の程度の伝播力で僕は絶対に満足はしない。

”満足したら終わり”だと?
そんな誰でも簡単に口にできるような余計な戒めの言葉なんかいらないんだ。

欲望はそもそも無限大だ。

自己満足は己を認めるために必要不可欠だと思っているから、それすらできなきゃその先は見えない。
そこに溺れてもその先は見えない。
”満足したら”って仮定なんかいらないだろ、満足するはずもないんだから。

心の底から笑ってなんかいられるものか。
僕はまだ攻撃の構えをとっただけだ。

豊饒は冷たい雨を伴う。
身を引き裂くような雨は、いつか大地をしっかりと固める。

享楽の裏には激しい苦しみと苦悩がある。
苦悩の底から、青い空を突き抜けたその先の快楽を、僕ただ見上げているだけだ。

普遍性の共有は、まだまだ遥か空の彼方。

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