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2012年1月27日 (金)

rebirth

レコーディングをしている。

時間芸術は、録音というかたちでケースに入れられることによって、その大事な要素である”消えていく”という性質を剥奪される。

忘れ去られることによって新陳代謝を繰り返し、それによって創造性を維持してきた音楽という時間媒体の表現手法は、かつてウォルターベンヤミンが危惧した通り、息を止められ好き放題複製されて、実際のところその存亡に大きな危機を抱いている。

そもそもスコアという記録物についても重大な欠点があり、現代、それを元にして復元されるのはいいが、それが過去のすべてを反映するものではないということへの危惧が今の演奏者には分かっていないということだ。


歴史をちょっとひも解けば分かると思うが、完成された音楽は譜面ありきではなく、音楽が完成した上で譜面化されたもので、これは不可逆である。

現在のようにコード化された音楽というのは、音そのものがブロック構造であって、バッハの対位法のように旋律が幾重にも重なって音楽を構築する、いわゆる本来の和音構造にはほど遠い。

現場でよく聞く、”理論上云々”という腐れインテリの言葉などは子どものお遊び程度で、やはり僕ら作家は、今を耳でとらえ、今判断を下す、これが基本であり実力である。


ラヴェルは旋律とリズムの解釈を大きく変え、バルトークは民族音楽の多くを解体し再構築して、古典音楽から多くのタブーを排除した。


全ての創造物は言うまでもなく、”即興的に”成立していく。
造形物でも絵画でも出来上がったものだけを目にするからはなから時間の要素は無いように思われるが、その出来上がっていく過程においてどう変化し、作家によって何が選択されてきたのかを知ることによってのみ、それらの真の姿を知ることができる。


音楽に”記憶”は不必要だと僕は思う。
インパクトを求め、刺激を求め、あろう事か、それを作り出すものでさえもそれに固執し、耳から脳への伝達は鈍り続けて腐り、結局は”目”で判断する。

そんな莫迦なことがあるか。


周知の事実だと思うが、耳の機能は目の何倍も低い。
退化した耳を”澄ませて聴く”という行為は、それだけで現代人にはストレスであるそうだ。


上記のように、音楽と記憶という二つの事項をセパレイトして考えていくことによって、新たなものは生まれやすくなり、逆に聴くという能力に優れた人間は、聴いた音楽を辿り、その思い入れや解釈の中から自らの世界を再構築する。


レコーディングをしているのだが、うまくいくなんてことはこれっぽちも思わない。
プレイバックするたびに、そのアイディアは更新され、当然のように書き換えられるべきだと僕は思っているからだ。

”終わった”ことをほんとに終わったと思うことほど、この世に退屈な作業は無い。

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