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2012年1月

2012年1月30日 (月)

crucify

”作り出す”ということにおいて、僕らの生きる時代には、まずゼロからスタートということは不可能であり、皆無である。

世の中に情報という情報があふれ、その情報の活用の仕方においても強者と弱者が出てきてしまう今時分に、”これはこういうものだから”という理屈は当てはまらず、逆に”そういうものだと分かっているからこそかたちを変えなければならない”という必要に迫られる。


文化というものは優れていて、その中において人は、語弊はあるかもしれないが、はみ出す必要のない生き方もできる。

伝統、はたまた因習はその文化の土台を支える事象ではあるが、たとえばもし、いっこうに進化することのない種族がいたとしたら、それならば一度成立した伝統や因習は姿を変えず”これはこういうもの”で時間を渡って来られただろうが、そもそもそれでは伝統というものなど生まれるはずもなく、人為的な統計ではなく経験から成り立つ因習も生まれるはずもない。

多くは”古典”の捉え方を取り違え、”伝統”を都合のいいように古き良きものとしてねじ曲げる。

それは違う。
伝統は確実に”進化”する宿命にあるのだ。
今を生きる僕らに寄り添うように、過去の洗練された知識を活かす。
これが継承というものであり、理解であろう。


様々な芸術にはそれぞれの分野における意見があるだろうから、餅は餅屋に任せるとして、音楽のことに関して言うのなら、僕らの世代がすることってのは、悪い言い方をするならば、”情報のねつ造”だと思う。

誤解しないで考えてもらいたいのは、実はねつ造という行為、”捏造”、こねて作るわけだ。
事実でないことを事実のようにして作る。
少し考えれば分かると思うが、こんなことは材料が揃わなければ絶対に事実然として作れるわけがない。つまり、それをおこなうものはより深く物事を知る必要がある。

実世界と架空世界の架け橋となるのは芸術の役割であり、ならば芸術は”捏造”が必要である。
限りなく実世界に近いもを作ることだ。
世界の中の世界を作り上げることが許されるのは、こうした行為の専売特許ではないか。


覚えたもの知ったものを変容させて、今を作る義務が作家にはある。
知り得ることの全ては”過去のもの”のはずだ。
僕らは完璧に未来を見通すことなどできないはずだから。


知らないことへの恐怖や嫌悪感は常に人にまとわりついている。
だから、作ることは孤独だ。
たった今が、すぐに過去になり、多くはその過去を追うようにして生きている。


時として、”思っていることを口に出してほしい”とたくさんの人に言われてきたが、僕にとってそれほど難しいことはない。
結局は今をとらえて、今に反応するから、不言実行ということになる。
さらに正しく言うならば、”言えない”のだ。

己も機能する歯車の一つ。
やりたいやりたくない、知ってる知らない、できるできない、そんなこと、時間の流れは僕らに問うては来ない。

やるか、やらないか、それだけの選択肢だ。


僕は、”わかってほしい”、”愛されたい”。
でも、言葉にすれば過去を述べることになる。
だから、己の気持ちを犠牲にするしかないのだ。

僕自身も僕の作るものの中では、”歯車”になる。
このことだけは絶対に誤解されたくない。
僕は自己満足な快楽主義者ではない。

行動することにおいてしか僕は僕の真意を人に伝えることができない。
何とも不器用で卑小な存在だ。


が、たとえこの先ずっと理解されなくても、常に進行形のアウトプットをすることが自分の天命だと思っている。

犠牲のない行為など存在しない。


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2012年1月27日 (金)

rebirth

レコーディングをしている。

時間芸術は、録音というかたちでケースに入れられることによって、その大事な要素である”消えていく”という性質を剥奪される。

忘れ去られることによって新陳代謝を繰り返し、それによって創造性を維持してきた音楽という時間媒体の表現手法は、かつてウォルターベンヤミンが危惧した通り、息を止められ好き放題複製されて、実際のところその存亡に大きな危機を抱いている。

そもそもスコアという記録物についても重大な欠点があり、現代、それを元にして復元されるのはいいが、それが過去のすべてを反映するものではないということへの危惧が今の演奏者には分かっていないということだ。


歴史をちょっとひも解けば分かると思うが、完成された音楽は譜面ありきではなく、音楽が完成した上で譜面化されたもので、これは不可逆である。

現在のようにコード化された音楽というのは、音そのものがブロック構造であって、バッハの対位法のように旋律が幾重にも重なって音楽を構築する、いわゆる本来の和音構造にはほど遠い。

現場でよく聞く、”理論上云々”という腐れインテリの言葉などは子どものお遊び程度で、やはり僕ら作家は、今を耳でとらえ、今判断を下す、これが基本であり実力である。


ラヴェルは旋律とリズムの解釈を大きく変え、バルトークは民族音楽の多くを解体し再構築して、古典音楽から多くのタブーを排除した。


全ての創造物は言うまでもなく、”即興的に”成立していく。
造形物でも絵画でも出来上がったものだけを目にするからはなから時間の要素は無いように思われるが、その出来上がっていく過程においてどう変化し、作家によって何が選択されてきたのかを知ることによってのみ、それらの真の姿を知ることができる。


音楽に”記憶”は不必要だと僕は思う。
インパクトを求め、刺激を求め、あろう事か、それを作り出すものでさえもそれに固執し、耳から脳への伝達は鈍り続けて腐り、結局は”目”で判断する。

そんな莫迦なことがあるか。


周知の事実だと思うが、耳の機能は目の何倍も低い。
退化した耳を”澄ませて聴く”という行為は、それだけで現代人にはストレスであるそうだ。


上記のように、音楽と記憶という二つの事項をセパレイトして考えていくことによって、新たなものは生まれやすくなり、逆に聴くという能力に優れた人間は、聴いた音楽を辿り、その思い入れや解釈の中から自らの世界を再構築する。


レコーディングをしているのだが、うまくいくなんてことはこれっぽちも思わない。
プレイバックするたびに、そのアイディアは更新され、当然のように書き換えられるべきだと僕は思っているからだ。

”終わった”ことをほんとに終わったと思うことほど、この世に退屈な作業は無い。

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2012年1月23日 (月)

一握の

1月も間もなく終わろうとしている。
寒さは一層厳しくなる。


例年になく慌ただしい1月になっている。
二足わらじというほどはっきりとした成立ではないけれども、4足ぐらい履いてようやく今日か明日かが持つぐらいの、まあ、何とも貧しく余裕のない生活である。

年を追うごとに責任は重くなり、上を見れば見るほどに、そこに手が届くのかどうかということより、そこに果たして自分の理想を実現する何かがあるのかという疑問ばかりが浮かぶ。


孤独な作業は、真に孤独ならとても静かで心落ち着くものだ。
どこにも向かうこと無く、ただ何かを生み出すことに没頭することはどんなにか楽なことだろう。

目を覚まして自らの意志で布団からもぞもぞ這い出て活動するより、暖かい毛布にくるまって横になっている方が快適なように、多くの場合はただ教えられたものだけを信じ、やれと指示されたものだけをやり、何らかの”毛布”にくるまって生きていける。

自らの意志であたたかい場所をあとにして、何かを変えたいと思って動き出すことは、きっと僕が長時間眠れないのと意味を同じくする。
”目を覚ましてしまう”のだ。


今がある意味を考えなければ全てがつまらなくなると僕は思っている。
たとえどんなところにあっても身体全てが反応し、指の先まで気が満ちていなければ、僕は今をとらえ損ねる。


計画性が無いことは嫌いじゃない。
計画を自分の都合によって変えることが嫌いだ。

自分を捨てれば理想はかなえられるのか。
自分を捨てれば、そもそも理想は消失するのか。


いつも葛藤する。


僕の道には、挑戦しか無いようだ。

”ぢっと手を見る”とはよく言ったものだ。
僕も自分の手を”ぢっと見る”ことが増えた。

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2012年1月14日 (土)

what started as fun

2012、1月。


新しい日は昇れども、何かが変わるわけではない。
新たな気持ちになれるわけでもない。

きのうから、はたまたもっとずっと前から、この時間の流れは続いている。

振り返ったところで、過去が訂正できるわけではない。
無くしたものは、過ぎてしまった機は、もう戻ることは無い。

やり直しは、きかない。
ただ、一瞬ののちに次の選択肢が訪れて、僕は生きるうちにそれを永遠に繰り返す。


それの何が楽しいというのか。
それのどこに喜びがあるというのか。


鋼の螺旋は自らの手では断ち切れない。

自分で作り出した螺旋なのだ。
呪縛を生んだのは自分だ。


積み重ねた月日は、息つく間もなく無に帰す。
それが現実というもの。

昨日も明日も今日もない。
あるのは今だけ。

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