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2011年12月12日 (月)

彩光

12/9(金)

僕らは自分が見えるものを信じ過ぎている。


仰々しく飾られた、中身のない箱。
より鮮明に、よりリアルにと、”解像度”という呪いをかけられた映像。
四角い無味乾燥の枠にはまった、どこかの国の誰かの動画。

それらの多くは、いったどれだけの真実をはらんでいるのか?

切り取られた時間や景色は、いつから別世界として扱われるようになったのか。
痛みや苦しみも消え、そこに生きる人々の息づかいもかき消され、”意識のふりをした”情報という魔術で目がくらむ。

写真展を見に行った。

僕は、知ってる人は知ってると思うが、見たいものしか見ないし、聴きたいものしか聴かない。
付き合いなんてのは、苦手というより嫌いだ。

そんなわけだから、”ほんとに見たい”と思って見に行った。

ある日、すなやまんがちょっと見せてくれた猫の写真がどうにも気になっていたのだ。

猫の写真なら、結構どこにでもある。
が、見せてもらったものは、少なくとも僕の中では”異質”に見えた。
そのときにはその理由が分からなかった。

銀座の眼鏡屋の通路を利用して、その写真家さんの写真は展示してあった。


僕には、写真に対するたいした知識もないし、これといった先入観もない。

モロッコの通りを映し出した1枚。
何気ない通りの写真のはずだが、僕の目には明らかに見えないものがそこで時間を止めている。


写真は、写真家の”目”であると僕は思う。
つまり、”見えている”のだ。


突拍子もない話の飛び方をするなら、”物に気が宿る、その気をまさに無造作に掬ったような”と言えばいいのか。

そして、それは僕自身の体験のように、”見える”のだ。


まさに自分の目で見た物のように、疑似体感する。
空気を感じる。

猫の写真で僕が気になっていたことは、まさにそうしたことだった。
気配、それがある。
すなわち、気があり、それは呼吸し、生きている、ということ。


画竜点睛はなっていて、それはいつでも動き出せるはずなのに、あえて息を止めてるかのように、そこに存在する。

素人質問を恥ずかしがりながら、ちょぼちょぼとしてみた。
丁寧で、熱のある説明を聞いたが、それも飾らない言葉。
芸術は磨き抜かれ、鍛え上げられた普遍のポップセンス。
発する者の人生を映し出し、受け取る誰かの人生を豊かにする。


自分の目では決して見えなかったはずの物を、写真を通して、一人の芸術家の目を通して、僕は見た。

それだけで、もっと世界はカラフルになる。
豊饒な精神を生む螺旋ができていく。


自分に見える物が全ての世界ではない。
真実を知るきっかけになる。
魔術が解ける。

そうそう、だから現実は残酷であったり孤独であったりもするけども、こんなにも美しい。


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