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2011年9月19日 (月)

LIVED, LEGNA

9/17(土)。
残っているどころか、まだまだ主張の激しい暑さだ。

この日はうちの近所の、行きつけのカフェFUNRUNにて、梯子ノ上デのフリーチャージライブだった。
土曜の昼下がりということもあってか、席は満席になり、みんなデールの歌声に耳を傾けてくれた。


おいしいご飯もテーブルに並ぶ。


基本、梯子ノ上デは4人なのだが、この日はギターのタクボンがお休みで、3人での演奏となった。


デールの歌詞は、アメリカ人であるにも関わらず、とても美しい日本語で綴られている。
月並みな言葉ではなく、ほんとに彼が発する言葉だ。
それは誰にも真似できない。


オリジナリティーというものは、決して”変”なものではない。
常識や過去の偉大な表現を飲み込み、噛み砕き、再構築されたものだ。

それが例えば言葉なら、聞いたこともない言葉というわけではなく、まさに語り口のようにその人の”語り方”が表出するわけである。

俳句や短歌やあるいは詩というものにおける、短い言葉による感情の表出は、短いが故にある種の規則がそこに生まれるが、それこそまさに言霊に核だといえる。

その核はつまり”比喩”ではなかろうか。


短い言葉が信じられないほど多くの情報を含むとき、その表現は受け手の想像力に委ねられ、極限まで豊かになる。
人が成長していくにつれて、その意味を知り、多くの情報をその短い言葉から引き出していけるようになる。


デールの言葉はストレートなものなのか、それともよく練られたもか、それすらもわからない。
ちまたにあふれるいわゆる”ストレートな表現”があまりにも乳臭く思ってしまう。
それぐらいにデールの言葉はとても豊かで、たくさんの創造の自由を与えてくれるものだ。


人は、その目を開き、その耳を澄まし、鼻も舌も触る感覚もオープンであることを意識すれば、自ずと成長していくものだと、少なくとも僕は信じている。

教育にできることなど無に等しい。
それは土台ときっかけを与えるもので、現在のそれは特に人を育てるものからかけ離れたところにある。


年相応の感性というものは随分と幼退化したように思う。
人は創造する自由を捨てるつもりなのかと疑いたくもなる。


デールの言葉は”そうじゃない”ということの証。
創造の可能性は、眠っているのであって、捨て去られたわけではない。


ただ、眠っている。
起きるきっかけがないからだ。

なぜ僕が演奏をするか、作品を作り続けるのか。
なぜデールと出会ったのか。
なぜこんなにも彼の言葉に心を打たれたのか。

これは必然だ。

僕のなかの可能性の一つが、彼の言葉で目を覚ました。
彼の言葉を待っていたのかもしれない。


それとも、目を覚ましたのではなく、心に魔物でも巣食ったのか。

禅問答と同じで、悟りの境地も魔境もいる場所は同じ。
そういうことだ。


結果、デールは天使のような悪魔である。


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