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2011年9月10日 (土)

let me breathe

遡る9/2(金)。
むしむしする一日。

昼下がりに、小川君と合流。
巻きたばこの一服をはさみながら、自宅スタジオで軽くリハーサルをする。
この日は僕と小川晃一のデュオでの演奏が夜に行われることになっていた。


夕方には下北沢に移動したのだが、ついた直後に驟雨に見舞われた。
バケツどころか、浴槽をひっくりかえしたような猛烈に打ちつける雨だった。

通り雨と思いきや、そのあともしとしとと降り続くもんだから、湿気はマックス。
楽屋は雨漏り。


僕らは一番手で演奏した。
二人で演奏するのは半年ぶり。
静かな歌と、ギターと、打楽器の演奏だった。


地下でおこなわれるこうした、いわゆるブッキングライブというのは、最早死に体だ。
何のカルチャーももう生み出せない。

僕も小川君も、すでに地下での活動はほぼ0に等しい。
この日僕らは、ぽっかり空いた隙間を埋めたに過ぎない。


焼き増すことを文化というならそれもいいだろう。
ありふれたものを何度も求めたいというなら、それに応えることもいい。

だが、地下には何もない。

垂れ流される形にならないスライムのごとき、”騒音”。
”ちょっといい感じ”なのが聴ければラッキーぐらいで、家に帰ればすぐ忘れる。

パフォーマンスの方法論は多岐に渡っている。
様々な方法は、誰にでもそれなりの技術でパフォーマンスできる力を与えた。
演奏技術は高いものになってきている。
それは進化といえるだろう。


が、しかし、形にとらわれ、大義名分を忘れたものは芸術ではない。

誰にも認められないものと、万人に認められるもの、これは実際は同じ形だ。
どちらにも”好き嫌いの判断”が存在するのみ。
考えるきっかけにならない。


芸術は社会的通年のその先にある。
己のなかに形作られたものの表出が、誰かの心に触れ、何かを考えるきっかけになったときに初めて芸術となる。

そこには先人たちの影響は多分にあるが、憧れからは逸脱している。
初期衝動は時間をかけて緻密に磨き上げられて、まるで森みたいな有機的な生態系を作り上げる。

それこそ、僕や小川君がともに目指すものだ。

僕らは口癖のようにいった。
”退屈だ”、と。


刺激なんてすぐに飽きる。
どっかで聴けるようなもんならどっかで聴く。

土砂降りになったんなら、ついでにこの退屈も流し去ってくれれば良かった。


僕らは、二人で演奏して、”一人以下の音”しか出さなかった。
つまりそれがアンサンブルの、一つの答え。

真空のなかに空気を送り込むような、そんな感じ。
息ができるように、空気を送り込む。
優しく、優しく。

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