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2011年6月10日 (金)

身にまとうべきもの。

いつだったか、大学のゼミに学生が僕しか来てないときがあって、授業をするのも何だからと言いながら、先生と僕の2人で授業時間に相当する時間、あれやこれやと話した事があった。

先生は基本的にフランス文学を専門にしてはいるものの、総合的に芸術への関心が強く、ゴダールの映画の話から、被服についての話に発展した。

大先生はまるでルンペンかと思うようなボロボロの洋服をいつも着ていたので、まったく服には興味が無いのだろうと思っていたのだが、実はホントにこだわると良い服ばかりが欲しくなるから、出来るだけ手を出さないようにしているというのが彼の主張だった。


それはさておき。
僕らの話は”服は身にまとう芸術だ”というところで盛り上がった。

当時僕は、こんなフランス文学専門の先生のもとで、まるでフランス文学なんか読む事も無く、アフリカだのアジアの文化についてばかり調べて、似非文化人類学の卒論をしたてようと思っていたところだったのだが、そんな僕の頭の中にも民族衣装等の知識はインプットされていたせいか、思いのほか先生との話が盛り上がった。


人は何を身にまとって生きるか?
僕ら人間は、外を歩くだけで表現活動をしている。
思い思いの服を着て、思い思いの言葉で話す。

表現というのは、そのレベルに関係なく、表現として成り立つ。

が、芸術は違う。

と、こんな具合に話が盛り上がっていく。


芸術は、”研ぎすまされた精神の具現化”と、先生は言った。
今でもはっきり覚えている。

コストのかからない安いものを身にまとう行為は、自らの精神を堕落させ、人間が本来持ってる”知への飽くなき探求心”を腐敗させ、五感を全て奪うのだ、と。


もう10年以上前の会話の内容だけども、忘れないもんだ。


今僕らは、その足を使わずともすべてをパソコンの前で手に入れ、必要以上に汗を流さずとも、安く欲しいものを手にする事が出来る。

ベンヤミンの危惧した”複製時代”を更に超えた大きな奈落を目の前にしている。

6/9。
僕は自分の愛する芸術家の作品の前に立った。
思い起こされたのは、先生との話。


その作品の価値は、ビジネスに支配されない。
トレンドもそこには存在しない。

大きな意思と、時代の必然性と、人の示しうる”不老不死”の真のかたち。
終わらないアトリエ。

それが芸術。
僕の身にまといたいものは、紛れもなくそれだ。


あっという間に時間の差を埋めてくる。
未開の地だった、脳のどこぞの部分にアラームを鳴らす。


金銭感覚のみで動く社会で、”高い”はつまり、”お金がかかる”である。
しかし、芸術的観点から見れば、”高い”は”考え、理解しようとする時間を多分に要する”という事になるのではないか。

表っ面ポップな顔をして、憎たらしい程にその核になかなか触れさせない気高い作品に手を伸ばす。

知識欲が目を覚ます。
物事の核を捉える目になる。


服は皮膚の延長線上にあるもの。
皮膚は己の意思をまとった精神の延長線上。
芸術は精神の具現化したもの。
すなわち、僕らが身にまとうものは芸術。

詭弁だろうか。
僕はそうは思わない。


僕らはリスクを背負いながらも、知を身にまとい、常に生きるすべを考えながら歩かなければならない。


終業のベルが鳴った。
”じゃ、先生にとって、こだわり抜いた良い服って何ですか?”と聞いてみた。


彼は迷う事無く、、、。
”ん、GAPの服。”


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