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2011年4月20日 (水)

words from the night head

"夜頭"という言葉があるのかないのかは知らないけれども、おそらく多くの人が誰でも認識している共通の感覚だと思う。


へんてこりんなロマンチシズムだったり、最高傑作と思えるような恋文を書けたりする"夜頭"なのだが、僕はこの夜頭とうまく付き合っている。

今までに書いたほぼ99%の曲は夜頭がもたらしたものだ。


眠りが浅い僕は、夜中にしょっちゅう目が覚める。
酷い時は強迫観念のように寝よう寝ようとするのだけど、たいがいは寝ることを諦めて、しばらくは考え事をする。

その多くは作曲のアイディア。
で、この夜頭なんだけど、ものすごく創造的なわりにはすぐに忘れてしまうという特長もある。
つまり、思考に前後の脈絡がなく、断片的で一過性のものだということだ。

が、極まれに、朝になっても覚えているものがある。
それをまとめることで新しい曲や詞が出来上がる。


ダダイズムやシュルレアリズムにおける手法と、僕のいい加減な夜頭の想像法が酷似していることに最近気がついてとても興味深く思った。


話を難しくしたくはないので語弊が生じるかもしれないが、ダダはいってみれば出来上がった手法に対する反発と破壊であるといえる。

それまでの絵画の常識を覆した超立体手法のキュビズムが、高度なテクニックによった写実主義への反抗の狼煙とすれば、ダダは市民権を得たゲリラ戦のようなものだと位置づけられるか。


芸術の目標点が"最上級の模倣"であってはいけないと痛烈に批判したことから始まる、この異形の創造物は、明らかに"思考"そのものの具現化に成功した。
人の思考というフィルターを通して、この世界のどこにも存在しない創造物を作り出し、表現に新たな可能性を与えたわけだ。

シュルレアリズムはこの突拍子もない創造物を、まるで皮肉のように写実的、あるいは現実的な世界に当てはめてしまった。

一見すると目で見た現実の写し、だが、おかしなものが混じっている。

テクニックをあざ笑うかのような、想像力の凌駕。

これが"夜頭"にとても似ている。

音楽を考えるときに実演と時間はこの芸術からは切って離せないので、どうしても身体的満足とサーカス的な超絶技巧に目がいきがちだが、本来はそれが芸術である以上、発する側も捉える側も快楽と驚愕にのみ身を委ねるのではなく、想像の迷宮に足を踏み入れることをしなければならないはずである。


誰かの表現というのは決して居心地のいいものではなく、ましてや100人が100人、みんながほしがる商品でもない。

が、どういうわけか、人は共感し、または想像の目を開くことになる。


常識というのは、己を恐れから守ろうとする脆弱な防壁に過ぎない。
身体能力は分かり易くその常識に訴えかけ、ときには土足で上がり込んでくる。
けれどもそれは飽くまでも形骸で、魂を追い抜くことはない。

形骸は器である。
揺らぐ想像力を入れる器を提供することで芸術を商売としている風潮には、僕的には常にもの申したい。


逆に、魂が躯を自由自在に操ることで想像は無限の力を得る。
いかなる場合においても僕らは考え続けなければならない。
考える存在こそが人の魂であり、そこに可能性が見えてくる。


と、こういうことを発言させるのが件の"夜頭"ということになる。
考えるということはこんなにも面白い。


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