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2011年3月17日 (木)

八百万の国で

3/17、今日は特に冷え込みが激しい。

震災から1週間。
祈りは深くなるばかりだ。


オーストラリアの友人と頻繁にメールのやりとりをしている。
彼が海外の記事を送ってくれたので、読みふけっている。

様々な意見があり、いろんな価値観がある。

興味がわいたので、自分でも海外のジャーナリストが公開している記事をネットで色々読んでいたら、宗教の側面から記事を書いているものを発見した。

非常にデリケートな内容を含んでいるので、もしかしたら嫌な気分になる方もいるかもしれないが、”モラル”ということを考えるために、ここに記しておく。


ニューヨークが同時多発テロに見舞われて深く人々の心に傷を残したのに、なぜあれだけはやく立ち直ったのかということについて書いてあった。
人々の多くはキリスト教で、みんなが神の御名の下に祈り、団結した結果だ、と。

その人は、”固有の神を持たない日本人は、一体なにのもとに祈り、これほどすさまじい団結力を見せているのか”と書いていた。


僕ら日本人にとって、神、あるいは仏は、”命”そのものではないだろうか。
オーストラリアの友人とのやりとりの中で僕はそう考えた。

僕らは命のもとに力を合わせ、祈る。
あるべき命が平穏無事であるように祈る。


日本は何度となく神や仏を捨てた。
古くは寺や神社を焼き払い、近代では廃仏毀釈によって崇拝するものを手放し、太平洋戦争の敗北によって価値観は完全に崩壊した。


僕らは何を信じ、何によってモラルを保つのか。

大戦で負けたとき、一番に整えられたのは教育のシステムではなかったか。
荒廃から人々を守るのに、教育は非常におおきな役割を果たす。


時間が経つにつれて、苦しみの渦中にある人たちは疲れ、運良くそこから逃れた人たちは惨状に倦み、また飽きる。

そのときに何が僕らのよりどころとなるか。
それはこの国の真の文化ではないだろうか。

ひとつひとつの命に宿る八百万と、それによって育まれた強い歴史を僕らは基礎的な教育によって知っているはずだ。


団塊という戦後の世代は、ほぼ無の状態から経済を立て直したといっても過言ではない。


最後まで意識を保ち続けたい。
どんなに疲れても。
この国にいる以上、責任を負わなくていい人は一人もいないのだ。


1秒でも長く、1ミリでも深く考えて生きていきたい。


友人とのやりとりは今のところここで終わっている。

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